哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

コソボの楽団と日本人指揮者

2011-02-03 03:30:30 | 時事
 先日たまたま民放テレビで「戦場に音楽の架け橋を~指揮者柳澤寿男 コソボの挑戦」という番組を見た。再放送のようで、インターネットで探してみると、指揮者の講演会のサイトもあった。


 内容は、コソボの紛争地で未だに民族同士対立している場所で、対立する民族同士が一つの楽団を構成して演奏会を開催したという内容だ。昨今の民族対立の激しい世界情勢を考えると、極めて困難な行為であることは明らかだ。見ていると国連が安全面でかなり関与しているようだった。

 番組は演奏会そのものを開催できたという結果でもって目出度しとして終わっていたが、映像は結構断片的だし、演奏会の観客も少なそうだったので本当に成功したといえるのかよくわからなかった。しかし、セルビア人、アルバニア人、マケドニア人の3民族からなる楽団を結成しようと奔走し、何とか実現にまでこぎつけた日本人指揮者の苦労は十分伝わってきた。

 そして演奏会後、番組の最後に日本人指揮者は、テレビ取材者の問いに答えて「音楽をやっている最中は、民族など関係ない」と強い口調で言い放ったのが最も印象的であった。音楽に国境はないとよく言うが、それは国家ももちろん民族も関係ないということを、単なるお題目ではなく、まさに民族紛争の只中でこの指揮者は自ら実演してみせたのだ。


 ここで池田晶子さんの謂いを繰り返す必要もないとは思うが、少し引用しておこう。

「人は、とくに考えずに「私は日本人である」と言う。しかしこれは、よく考えてみると、たまたまそこに生まれたというそれだけのことであって、たまたまそこに生まれたから「私は日本人である」と、「私」を「日本人」に自己同一化しているところの「これ」、これはその限り、何者でもないのだ、どこにも属してはいないのだ。・・・「帰属意識をもつ、もたない」という言い方が端的にそれを示してして、誰もがじつは、自分は本来は何者でもない、どこにも属してはいないということを知っているということだ。」(『残酷人生論』「アイデンティティーという錯覚」より)