哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

イエス・キリスト

2007-04-08 00:00:01 | 哲学
 前回、池田さんの文章でイエス・キリストについて触れられていると書きましたが、その該当部分を少し引用してみたいと思います。イエスと仏陀とソクラテスの会話は『帰ってきたソクラテス』にありますが、これだとイエスの話がわかりにくいので、今回取り上げるのは『ロゴスに訊け』の「汝に敵は存在しない」からです。アメリカのテロ事件とその報復行動、イスラム過激派の話から、以下の文章に流れています。


「・・彼(バチカンの法皇)は、汝の敵を愛せよ、と説いたのだろうか。右の頬を打たれたら左を差し出せ、と説くことはしなかったのだろうか。
 理性の言葉によって論駁することはできる。納得しようとしまいと、正しく語ることならばできるのである。本当に難しいのは、納得しようとしないその感情をも納得させるような正しさの言葉だろう。本来は宗教の言葉こそが、争いと憎しみのこの人類史において、そのような役割を果たしてきたのではなかろうか。
 人間的な感情の超越、イエス・キリストの超人性がそこにある。報復という感情に動いているのは、愛ではなく憎しみである。憎むのはやめなさい、自分のためにならない、高みから説くのは易しい。しかし、自分の身に起こったこと、愛する人の身に起こったこととして、その場で即座に敵を赦すことができるようになるまでに、人類は何万回滅びなければならないだろうか。
 ところで、イエス・キリストの言葉、その語り方にも、落ち度はあると言えばあるのである。敵は、「敵」と名付けられることによって敵となるという、言語上の事実である。名付け以前の「存在」とは、ある意味で「自分」なのだから、敵を「敵」と名付けることによって敵を作っているのは、他でもない自分なのである。」



 上の文章に続いて、池田さんは「汝の敵を愛せよ」の言い換えとして、「汝に敵は存在しない」「すべてが汝である」を挙げておられます。

 イエスの言葉に落ち度はあるとはいえ、池田さんはイエスに対して、感情を超越した超人性を捉え、そして「人間と世界の本質を考えて、言葉にして人々に語った者」としての好感を持っていることが伺われます。このような大宗教の創始者は、意外にも超人的な哲学者として捉えることができるようです。ただその後の大衆による信仰が、考えることよりも信じることを中心にすえてしまうことにより、宗教と哲学とが分かれていくのでしょうか。


 しかし、一般大衆に語りかける際に、理性と感性のどちらが訴えやすいかというと、やはり感性だということを、最新の文藝春秋臨時増刊号で塩野七生さんは言っておられます。為政者が真実の言葉で大衆の心を捉えるには、感性をもって行い、そして政治は理性で行うべきなのだそうです。

 そうすると、池田さんも上で書いておられる通り、理性で正しさを納得させるのが困難な以上、感性においても訴えることのできる言葉が人類には必要なのでしょうか。それがどうしても宗教になってしまうのか、それとも哲学の言葉がそれを担うことができるのか、については、後者を目指したのが池田晶子さんだと思いますが、その晩年は「自分だけ“善”ければよい」と、ややさじを投げた悲観的な言い方が多くなっていました。

 現代は宗教同士も不寛容な争いをしているように見えるこの世界で、宗教の言葉ではなく、哲学の言葉で何か力を及ぼすことができるでしょうか。

 いずれにせよ、引き続き池田さんの言葉をもとに考えていきたいと思います。


1 コメント

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Unknown (けん)
2007-04-12 20:28:44
>引き続き池田さんの言葉をもとに考えていきたいと思います。

素晴らしいことだと思います。

今日、書店で斉藤慶典さんの『哲学がはじまるとき』を立ち読みしていたら、あとがき(の後)に池田さんについて書かれている箇所がありました。
斉藤さんは『考える人』の解説も書かれていますし、おそらく、池田さんが「大学で教えている先輩」といった表現を何度かされていたのは斉藤さんのことかと勝手に思っておりました。(憶測ですが)

斉藤さんは池田さんを「盟友」と書かれていました。
そう言う理由として、
「思考することがよいことであり、私たちはもっともっと考える方がよいと信ずる点で完全に意見が一致していた」
からだと。