今日の国会で年齢制限撤廃となった臓器移植法改正だが、とにかく臓器移植の可能性を拡大しようとする世情の浅ましさを、池田晶子さんは徹頭徹尾批判していた。
「人が、死ぬのを恐れて、他人の臓器をもらってまで生きたいと思うのは、なぜなのだろうか。生存していることそれ自体でよいことである、という、人類始まって以来の大錯覚がここにある。」
「遠慮なく、極端なところを言ってしまえば、愚劣な欲望を価値とする愚劣な人間が、ひたすら長生きしてどうするのだ。」
(『考える日々』より)
いつも思うが、池田さんの言っていることは、あまりにも真っ当ではないか。
池田さんは、「善い人間」に対しては臓器移植を肯定しているだから、臓器移植そのものを否定しているわけではない。しかし、生き続けることにしか価値を見出さない「愚劣な人間」に臓器は与えたくないということは、一体臓器移植を受けられるのは何人いるだろうか。結局「善く生きる」人は、長生きすることに価値を見出さないから、臓器移植を必ずしも望まないかもしれない。
もし政治家が同じような言い方をしたときに、落選してしまいそうだとすれば、まさにそのことが「考えていない」民衆による政治でしかない、ということを示す証左なのだろう。
「人が、死ぬのを恐れて、他人の臓器をもらってまで生きたいと思うのは、なぜなのだろうか。生存していることそれ自体でよいことである、という、人類始まって以来の大錯覚がここにある。」
「遠慮なく、極端なところを言ってしまえば、愚劣な欲望を価値とする愚劣な人間が、ひたすら長生きしてどうするのだ。」
(『考える日々』より)
いつも思うが、池田さんの言っていることは、あまりにも真っ当ではないか。
池田さんは、「善い人間」に対しては臓器移植を肯定しているだから、臓器移植そのものを否定しているわけではない。しかし、生き続けることにしか価値を見出さない「愚劣な人間」に臓器は与えたくないということは、一体臓器移植を受けられるのは何人いるだろうか。結局「善く生きる」人は、長生きすることに価値を見出さないから、臓器移植を必ずしも望まないかもしれない。
もし政治家が同じような言い方をしたときに、落選してしまいそうだとすれば、まさにそのことが「考えていない」民衆による政治でしかない、ということを示す証左なのだろう。