哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

『子や孫に読み聞かせたい論語』(幻冬舎)

2013-03-25 23:46:46 | 
最近、論語を読み直している。論語に書いてあることは、たいてい当たり前のような話が多いように思えるし、解説文を読むと、本当に簡単な内容のように思える。しかし、そう思えるというだけでは、それは本当に理解しているといえるのか。書いてあることを表面的に理解しても、血肉にならないようであれば、それでは論語を本当に学んだとはいえないのではないか。心の底から本当にそうだ、と思えるほどに言葉をかみしめることができなければ、きっと論語を離れれば、徐々に忘れてしまうだけだろう。

池田晶子さんが孔子について書いている文章では、偉人は「当たり前の自覚が違う」といい、「偉人の言とは、自覚された通俗道徳だ」という。自覚するということは、自ずからそうとしかできないという覚悟をもつということなのだろう。そのような覚悟はどうやって備わるのか。

「当たり前がどうして当たり前かを考えないから、それがどうして当たり前かをわかっていない人と、当たり前がどうして当たり前かを考えるから、それがどうして当たり前かをわかっている人とでは、当たり前についての「自覚」が違う。我々にとって最も当たり前のこととは、たとえば、「生死」、生きて死ぬことである。生きて死ぬというこの恐るべき当たり前がどういうことなのか、世人にはわかっているものだろうか」(『人生は愉快だ』「孔子」より)


当たり前を考え、わかる、ということが、自覚をもつということにつながるようだが、その「考え、わかる」ということのハードルがどれだけ高いものか。誰でも池田晶子さんのように「考え、わかる」ものではないことを、つくづく感じる。

しかし、感受性豊かな子ども達には「考え、わかる」ことの可能性が高いようにも思えるので、子どもたちに読ませるようなタイプの論語の本があるのだろうかと、書店の棚を見てみると、表題の本があったのである。著者は女性で、あの安岡正篤氏の孫という。しかも1960年生まれというから、池田晶子さんと同じ生年である。

表題の本は、本当に簡易な本であり、論語のエッセンスのみである。おそらく小学生を対象にしたものだろうが、それでも漢文の書き下し文を主体にしており、論議の入門書として意外と良いのでは、と思う本であった。




「みんなちがって、みんないい」のか

2013-03-03 10:51:51 | 時事
金子みすずさんの詩はどれもすばらしいと思うのだが、久しぶりに中島義道氏の『私の嫌いな10の言葉』を読んでいたら、「わたしと小鳥とすずと」という題の詩の表題部分に関連して批判をしていた文章があった。。

「小学校の国語の教科書に(私の小学生時代にはなかったのですが)「みんな違ってみんないい」という言葉で終わる詩があり、テレビでその授業風景を見たことがあります。肌の色が白くても黒くても、男でも女でも、背が高くても低くても・・・・みんな違うけどみんないい。でも、それってウソなんじゃないかなあ、と画面を見ながら私はずっと呟いていましたし、子供のころ授業を受けたとしてもやはりそう思ったことでしょう。
じゃあ、殺人者も放火魔も強盗殺人も「みんないい」のかなあ。テストがいつも零点でも、殺される間際までいじめられても、親から毎日虐待され通しでも、「みんないい」のかなあ。そうじゃないから、生きるのがこんなに苦しいのに。」(『私の嫌いな10の言葉』より)

中島氏の言い方は、詩に対するというよりも、授業での取り上げ方をあげつらっているように思うが、金子みすずさんの詩そのものの批判にも聞こえる。「みんないい」とは、存在も行為も善も悪も全て肯定する意味なのか。いやそうではないだろう。詩はあくまで詩なのだから、全てをくどくど説明したりはしない。しかし中島氏は、暗黙の前提や空気を読むことを嫌うから、説明のない詩の内容を、教師が勝手に普遍化することを批判したのだろう。

同じ詩の内容を違った風に取り上げた本も最近読んだ。『人はなぜ、同じ過ちを繰り返すのか?』(清流出版)という本で、ジャーナリストと物理学者の対談本なのだが、意外にも哲学的で面白い内容であった。

「「わたしと小鳥と鈴と」というタイトルなのに、最後の部分で語順がひっくりかえって「すずと、小鳥と、それからわたし」になっている。これは数学的なレトリックですね。「みんなちがってみんないい」だったらみんな勝手にしてもいいになるけれど、「ほかのものがあって、それからわたし」とわざわざひっくり返しているところがポイントです。私の存在は、あなたがいてからこその存在、だという視点ですね。金子みすゞの詩には数学的手法が入っているからおもしろい。」(『人はなぜ、同じ過ちを繰り返すのか?』より)

やはり、こちらの詩の捉え方の方が素直で良いと思うのだが。




『宇宙になぜ我々が存在するのか』(ブルーバックス)

2013-02-21 02:31:31 | 科学
表題の本は、最近のベストセラーだというし、いかにも哲学的な題名に惹かれて読んだ。副題が、最新素粒子論入門とあったが、結論から言うと副題が正確であり、何ら哲学的話題は書かれていない。そういう意味では、以前紹介した『我関わる、ゆえに我あり』ほどのワクワク感はない。ただ、宇宙の起源の解明のための最新の素粒子論を、素人向けに解説したものであり、それ以上のものではない。

簡単にいえば、宇宙は最初のインフレーション後にビッグバンが発生して、137億年かかって膨張してきたわけだが、最初に物質と反物質が同時にできたはずなのに、宇宙に物質のみが残った原因としては、素粒子のうちのニュートリノやヒッグス粒子などを解明すればわかるであろうというのが、最新素粒子論だそうだ。

素粒子を解明すれば、なぜ宇宙が存在したかがわかるというような書きぶりだが、もちろん池田晶子さんがよく書いているとおり、素粒子を解明して反物質が消えた原因がわかっても、素粒子や宇宙そのものが「なぜ」存在するのかという哲学的問いには答えられない。宇宙において、人間や地球上の生物の材料が作られた科学的原理がわかっても、さらになぜ地球上に生物が発生して進化したのかという、存在論的問いにも答えはでない。素粒子に生物のDNAまで盛り込まれていたというのだろうか。そうであっても「なぜ」そうなのか、は科学の世界で答えは出ないだろうし、哲学的に問うても、人間にとっては「わからない」としか言えないままかもしれない。

宇宙は一体何を考えているのか。その考察の一端緒としては参考にはなる本かもしれないが、哲学的にはますます根源的な疑問が膨らんで行く。

『イエスという男』(作品社)

2013-02-09 19:39:59 | 
『寅さんとイエス』を読んでしまうと、どうしても表題の本を読まざるを得ないように思ったので、読んでみた。

イエスキリストが実際にどんな人物で、実際にどんな言葉を話したのか、については「史的イエス」として従来から論議されていたようで、類書も多いそうだ。この本は、キリスト教の教義や、現代的な思考に引っ張られがちな解釈の誤りについて細かく指摘しながら、イエスの真実像に迫ろうとしている。類書に対する反論の部分が多いので、少し本論から外れる記述が多いように思うが、それでも時代を踏まえた丁寧なイエスの実像に迫る著者の姿勢には真摯なものを感じる。

例えば、右の頬を殴られたら左の頬もむけて殴らせればよい、という言葉について、吉本隆明氏が「これは寛容ではなく、底意地の悪い忍従の表情である」と指摘することを、全くそのとおりだとする(但し注で、後の吉本隆明がどれほど愚劣になったとしても、と書かれている)。当時肉体的に実際にしばしば殴られているのは、奴隷や下層階級の者であり、その者たちにとって黙って殴られるのは安全を意味するという(反抗すれば、もっとひどい目にあうか、殺される)。つまり、上記のイエスの言葉は、屈従せしめられた日常生活の憤りとうめきを、とげのある皮肉にくるんで表白しているというのだ。

この本の帯には、イエスはキリスト教の先駆者ではない、歴史の先駆者である、と書かれており、最初はどういう意味かわからなかったが、読み進めていくうち、イエスが常に虐げられた人々の立場にたち、ユダヤ教支配層を批判する行為を行っている事実から、徐々に理解が深まる。イエスも時代を生きているから、その限界はあるにせよ、虐げられた人々や病人のために行動し、そしてそれは権力に対する反抗となっていった。殺された原因においては、なんとなくソクラテスに近いものを感じる。

ところで、池田晶子さんがイエスについて語る際によく引用する「敵を愛せ」という言葉は、この本ではどう扱われているか。著者によれば、この言葉もイエスお得意の逆説的反抗として語られたという。前提として、隣人を愛せ、という際の隣人とは、ユダヤ教では狭い範囲に限定した意味だそうである。

「「隣人を愛せ」という主張はおのずとその影として、「敵を憎め」という主張をともなわざるをえないではないか。あなた方はそれを意識していないだけだ。表にかかげる理念の影に、無意識に何をかかえこんでいるかが問題なのだ。だからこそ、あなた方にはっきり言ってやる。そうではないのだ、敵をこそ愛せ。
この言葉は、支配権力が「敵」をつくり出すことによって、人民をみずからの支配下にかかえこむことに対する逆説的反抗として、このように言われてこそ意味を持つ。」(P.50)

人間としてのイエスが本当に発した言葉は、けっして哲学的とは言えないそうだが、人々が熱狂した痛快さが随所にあるようである。




アルジェリア人質事件

2013-01-27 19:30:20 | 時事
日本人10人死亡という表題の事件は、改めて衝撃を覚えるものであった。ビジネスとして海外に行く日本人は多いし、アフリカにいる日本人ビジネスパーソンも少なくないだろう。現地は軍事地域とされていたというから、アルジェリア軍が守っているという安心感が今まではあったのであろうか。もちろん翻ってみれば、日本に住んで居るから絶対安全という保証もないのだが。

ところで、マスコミや政治家の話ではこの事件をきっかけに憲法と自衛隊も絡めて論じる向きもあるが、憲法改正論議をどうのというつもりはないものの、以下の憲法前文を思い返すと現実との乖離の大きさに言葉もない。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」

国際社会は冷戦時代以上に混迷を深めており、諸国民の公正と信義に信頼することは果たしてできるのか。いや、しかしこの前文は人類の理想を表明しているはずであった。人類共通の理想ではなかったか。池田晶子さんの文章は明快に指摘している。

「じっさい憲法の前文など、読むほどに深く安心させられる。お経のようなものである。あれは般若心経である。専制と隷従、圧迫と偏狭に苦しみ、ひとしく恐怖と欠乏から免がれることを希求する我々地上の人類にとって、あのような崇高でありがたいものが存在しているということは、よいことだ。それが現実に即さないからといって、それを現実に即して変えることの理由にはならない。お経が現実的でないといって、人はそれを変えようとするものだろうか。」(『勝っても負けても』「憲法は象徴である」より)

憲法前文は般若心経である、という名文句はもっと知られていいように思う。お経を唱えて死者を弔うように、憲法前文を唱えて世界平和を希求する。日本人にはわかりやすそうな話であるが、世界人類にはどうだろうか。通用しないはずはないが。



似るということ

2013-01-21 23:30:23 | 時事
書類を整理していたら、古い新聞記事が出てきて、冒頭に『正法眼蔵随聞記』の一節が紹介されていた。それは、「霧の中を歩けば、知らないうちに、衣が濡れる。それと同じように、立派な人に近づき接していると、知らない間に、立派な人になる。」というものだ。

確かに、どういう人と交流しているかにより、その人物を見定めるというようなことも、ビジネスの世界などでよく言われる。つまり、衣が濡れるのも、良い意味と悪い意味と両方あるというわけだ。「朱も交われば赤くなる」という言葉も、同様の意味だろう。

かつて警察官が暴力団と間違われて射殺された事件があったが、暴力団対策の警察官はなぜか暴力団員風の風体になってしまう。暴力団に舐められないようにするためだと聞いたことがあるが、しかしそのあまりにも似た雰囲気は、自然にそうなっていってもおかしくないと思わせる。

ところで、 実は以前に読んだ『寅さんとイエス』の一節にも、対象と似てくるという意味の話があった。
「自己にとって最も価値あるもの、大切なものを愛情込めて見つめていると、取るに足りない自分自身もおのずからにその価値あるものに類似してくる。・・・・キリスト教を一言で言えば、神倣いの宗教である。神に倣うこと、神を見つめることによって、人間が神に似た者となってゆく。」(『寅さんとイエス』P.173)

確かにキリスト教は、聖書からキリストの言葉を神の言葉として倣い、神のごとく生きようとするのであろう。そうであれば、自らが見るもの、価値あると思うものに似るということは、書物を通じても同じことが起こるように思える。池田晶子さんが、ソクラテスのように、あるいは小林秀雄氏のように語り得たのは、まさに書物からの神倣いのようではないか。

『古典力』(岩波新書)

2013-01-14 01:26:26 | 
表題の本の著者である齋藤孝氏は、いろんなテレビ番組によく出ていて、あまり好感を持っていなかったし、表題の本も「○○力」といういかにも流行りきった安易な題名であるので、中身の期待はあまりしていなかったのだが、気になって読んでみたところ、これこそは若者が古典をひもとくにあたって是非読むべき本であると思った。

人生の若いうちに古典を読むことをしなければ、絶対に後悔する。そのことは今の若い人たちにこそ絶対にわかってもらいたいことだ。この本のように古典を入門的に取り上げている本は、新書だけでも数多くあるが、この本が優れているのは、冒頭にある古典の読み方の説明が充実していることだろう。我々一般人が読むときの読み方に沿うようにアドバイスされており、専門分野に拘泥しない読み方をしてほしい高校生や大学生にお薦めである。もちろん好みもあるので、この本に載っている全てを読まなくてはならないわけではないものの、少なくとも半分以上は教養として読んでおきたいように思う。

この本で取り上げられている古典もほぼ納得できるものだが、ただ一点だけ引っかかったのは『共産党宣言』である。確かに薄くて読みやすいが、歴史的事件としては格別、繰り返し読みたい本になるだろうか。マルクスで取り上げるなら、その説明文中で触れている『資本論』にすべきではないかと思う。『資本論』が大部だからといっても、古典の読み方としては、それを全部読み切る必要はなく、拾い読みでも構わないのだから。

金子みすゞさんと相田みつを氏

2013-01-13 01:47:01 | 時事
思い立って、ある人に金子みすゞさんの詩集を贈った。金子みすゞさんのような感性を大事にしてもらいたいと思ったからである。震災後の公共広告で繰り返し流れた「こだまでしょうか」という詩によって、金子みすゞさんの詩が見直されて再度ブームにもなったときく。

金子みすゞさんの詩には、人間の立場を超えた視点が常にあり、その鋭くも儚い感性の瑞々しさは、本当に稀有である。代表作の「大漁」は短い詩なので全文を記憶できるが、大漁を喜ぶ人間の視点から、弔いをする魚の視点への劇的な反転が衝撃的である。他の詩にも同様の感性が見られて、人間の枠でしか見ようとしていない我々の狭い視野を反省させる。

ところで、本屋へ行って詩集のコーナーへ行くと、金子みすゞさんと相田みつを氏が大抵並んでいる。一見同じような詩人の部類に思われるからかも知れないが、実は種類が全く異なるように思う。相田みつを氏の詩は、政治家や経営者層に人気があるらしいが、その感性は金子みすゞさんとは異なり、あくまで人間の視点に留まる。前首相が取り上げた「どじょう」の話も、決して人間の立場を離れた視点にはなっていない。泥に住むどじょうを人間の視点で見ているにすぎないのだ。

池田晶子さんも実は、相田みつを氏について批判的に書いている文章がある。

「人が、「人間」の語を使用して、「人間らしい」「人間的な」「人間として」等と述べる時、それはいかなる意味なのか。
だいたいにおいて、それは、「優しい」「思いやりのある」「さまざまな感情を内包する」といったような意味であるらしい。・・・(略)
けれども、これらのすべては、語「人間」のあくまでも属性である。その列挙である。それらの属性を担っているところの当の「人間」、この主語の何であるかは、一言たりとも述べられてはいないのだ。なお厄介なことに、この語を使用してそれについて述べるのは、常にすべてが「人間」である。それで、各人勝手に好きな意味を込めて、この語を使用することになる。相田みつをの「人間だもの」はその好例である。失敗だってするさ、人間だもの。
要するに、何だっていいのである。「人間だもの」。私は、この種の自己正当化に、たまらなく不潔なものを覚える。相田に限らない。聞いていると多くの人が、この語のこの種の用い方をする(だから相田は人気がある)。「感情豊か」の意では、肯定的にこの語を用いていた人が、自身の感情的な振舞については、「人間ですからねえ」と逃げを打つ。時と場合によってどうとでもなる、この恣意性が、気に入らない。」(『考える日々3』「だって、にんげんだもの」より)

このような「人間だから」という使い方は確かに世間に多いが、この池田さんの指摘には全面的に同意する。





連ドラ

2012-12-24 19:31:51 | 時事
 少し前の話になるが、鷲田清一氏の講演を聞きに行ったことがある。テーマは地域コミュニティの再生の話であったが、冒頭部分で、NHKの朝の連ドラの話題を取り上げていた。鷲田清一氏はある新聞紙に連載コラムを持っているそうだが、そこにおいて、NHK連ドラにはドラマを象徴する重要なフレーズがどこか一箇所で必ず語られている、という持論を展開し、「梅ちゃん先生」では早い段階でそれが出てきたので、もうこれ以上見る必要はないと書いて、新聞社から怒られたそうだ。

 鷲田氏のいう「梅ちゃん先生」を象徴するフレーズというのは、主人公が手伝う開業医の医師が言った「医者はただそこにいるだけでいいんだ」という言葉だそうだ。要するに、医者は患者のそばに寄り添って安心を提供することが最も大事だということだそうだ。実際その後のドラマ展開を見ると、あまり大した事件も起こらず、鷲田氏の指摘した通りだと思った。

 さらに鷲田氏は「カーネーション」のモデルとなった家族とも親交があるそうだが、この「カーネーション」のドラマを象徴するフレーズとしては、敗戦の玉音放送直後に主人公が発する「さ、お昼にしよけ」という言葉だそうだ。これは、たとえ国家が滅んだとして、たくましく生活を支え、生き延びようとする女性の強さを象徴しているというのだ。国家が滅びたら運命を共にしかねない男性に比べ、女性はそんな枠にとらわれない外向きの強さを持っているのだと。確かに、このシーンは主人公のそのような強い一面を象徴する、大変インパクトのあるシーンだとは思ったが、「カーネーション」を象徴するフレーズを一つ選ぶとすれば、私は鷲田氏の意見には異論がある。それは、このドラマがファッションをテーマにしていることもあり、それに関してもっと印象的なシーンがあるのだ。

 ドラマの前半で、キャバレーの踊り子に主人公が安い生地で作った試し縫いのドレスを試着させたとき、その踊り子は、その試し縫いのドレスが気に入ったからこれでいいとし、さらにドレスごときで人は変わらないと言ったのに対し、主人公は一歩も引かずに、「ドレスで人は変わる。うちが最高のものを作ってやる」と言い放つのだ。この、「ドレスで人は変わる」というは、言わばドレスを着ることによって自分自身や周りに対する思いや考えを変えることに繋がり、ある意味人生そのものを変えることに繋がると言っているように思える。そして、この言葉がドラマ後半でクライマックスとなる、病院でのファッションショーに繋がるのだ。

 末期がんで家族に迷惑をかけていると悲しんでばかりで入院している女性が、自分がファッションショーできれいになることによって、自分に自信を取り戻し、家族の愛情を再認識するという場面だ。自分が美しくなれると思うことにより、人生自身を前向きに生きようと思える、というのは、人生が所詮観念であり、考え方次第ということであろう。

 池田晶子さんが、言葉がすべてである、と言っているのと同じように思えるのだ。


選挙の不毛

2012-12-03 01:44:44 | 時事
いよいよ衆議院選挙だそうだが、多くの新設政党が乱立して、一つの政党が大勝ちする前提にないので、ますます選挙後の混乱が予想されている。前回は民主党が大勝ちしたが、マニュフェストがほとんど実施できず、増税なき財政再建は全くの気泡となった。今回の選挙で自民党の与党返り咲きが予想されているが、民主党以前の政治体制にもどることは期待されているわけではなく、自民党でさえ消去法の末の選択にすぎないし、過半数にはなりそうもない予想だ。

選挙民からすればもっとも不満なのは、報道で見ている限り、国のリーダーとしてふさわしい政治家が見当たらないことであろう。リーダーとしての資格は、かつて塩野七生さん文藝春秋誌で列挙していた(説得力や自己制御力など)が、日本の政治家は全ての条件を満たす人はいなさそうだ。しかし、ふさわしい政治家がいないと嘆くばかりでは、全く進歩というのはないのだろう。

民主主義は自分のことは自分で決めることが本質だ。代表者を選ぶということは、結局選ぶ側の見識も反映する。池田晶子さんもさんざん書いているが、国民が自らと同類の政治家しか輩出できないのは当然の道理だし、それで国家が破綻するのなら自業自得と言えよう。つまり、他国と比較してリーダーにふさわしい政治家がいないとすれば、それが国民自身を鏡のように反映しているだけだ。

では、改善策は何かあるか。それはきっと単純なことであるが、一朝一夕にはいかない。というのは、それは国民が自ら精神的に向上することしかないからだ。国民総体だと想像しづらいだろうが、要は一人一人が精神的に向上すべく努力をする他ないということだろう。国民の精神力の向上というとすぐ教育の話になるが、しかし教育制度に依存しているだけでは、すぐに他人事のようになってしまう。そうではなくて、自らや家庭内で、そして地域社会の中で、精神的に向上して行く努力をする他ないのではないか。草の根運動とか言われたりするが、決してイデオロギー的にもならず、もちろん宗教的にもならず、かつての寺子屋のようなイメージでもいいが、とにかく足元から改善する努力を一人一人がしていく必要がある。

そういう点に関連して、古典を読むことを勧める本が少ないながらも本屋に並んでいるのはいいことだろう。あともう一つ早く実現してほしいのは、テレビの低俗な番組をやめさせることだ。これは国民がその番組を見なければ済む話だが。