哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

この人に訊け!(週刊ポスト2005年2月18日)

2013-11-23 10:13:01 | 
今回の書評対象は、エレーヌ・グリモー著『野生のしらべ』であった。若い女性ピアニストの半生記とあり、池田さんの好きな“天才”の心象風景として興味深い、として取り上げている。

池田さんはこの本から長い引用をして、哲学的に正確な記述だ、としている。長い引用文すべては載せないが、核となる文章は次のところだろう。

「私を包む袋がひどくじゃまだった。私を包む袋、私に境界線を定めている自分を意識し、何度もそこから抜け出したいと望んだ。・・(中略)・・私はあふれ出すことを望んでいるのに、「私の自分」がすべてのエネルギーを私のからだの境界線の内側に押し込めている。」

池田さんは、著者としての「私」が、肉体を超えてあふれ出すエネルギーもしくは天地万有と交換する魂であるとして、そのような天才のあり方に全面的に共感している。そして、天才が何を実現したいのか、は自らの意思を超えていることをも彼らは知っている、として文章を結んでいる。


エレーヌ・グリモーさんは、クラシックの世界では大変有名なピアニストで、私も彼女のリサイタルを聞きに行ったことがある。見るからに華奢で繊細そうに見えるが、驚いたのは、そのリサイタル中の弾き始めの様子だ。通常、ピアニストはステージ上に現れてお辞儀をした後、ピアノの前の椅子に座って、一呼吸整えてから弾き始めるのが見慣れた光景だが、グリモーさんは座るや否やいきなり弾き始めたのだ。いや座ると同時に弾き始めたといってもいい。その夜のすべての曲がそのように弾かれたのだ。天才のやることは、普通人から見ると、やはり何かを超えているとしか言いようがない。

『小林秀雄の哲学』(朝日新書)

2013-10-20 16:54:54 | 
 表題の本はたまたま本屋で見つけたのだが、単に小林秀雄氏に関する本なら世間に大量にあるので素通りするところ、引用文献のページを見たら、何と冒頭に池田晶子さんの著書があったので、思わず購読してしまった。

 小林秀雄に関する本の多くは池田晶子さんの言説は無視するようであるが、この本では冒頭にある序章の、最初に引用した文献の著者が池田晶子さんになっている。そこでは、夭折した作家として紹介されており、小林秀雄氏への恋慕の情を表明した、手紙のようなエッセイが引用されている。さらに池田さんについては、雑誌モデルで生計を立てながら哲学エッセイという執筆分野を確立した、とも説明されていた。

 この雑誌モデルの話は、池田さん自身の著作には出てこないが、かつて誰かの文章でも書いてあったように思うので、きっと業界では有名な話なのであろう。ただ、池田さん本人はこういう紹介は嫌うであろうことは間違いない。容姿についてどうであろうと、哲学とは何の関係もないことだからである。


 さて、表題の本の内容そのものは、小林秀雄氏の人生に沿って、著者が選んだ節目の文章を各章冒頭に置いており、一通り読むことによって、小林秀雄氏の人生の紆余曲折も含めて辿れるようになっているので、なかなか面白く読めた。著者は本書の目的として、小林秀雄氏の〈逆説・二分法・飛躍・反権威主義・楽観主義〉というスタイルの魅力と危険性を掘り下げるとし、後半ではベルグソンとも関連して、分析より直観を重視する哲学を小林氏と重ねる。

 この小林氏のスタイルは、池田晶子さんも同じであるのは言うまでもない。だからこそ池田さんは小林氏の文書とコラボした本(『新・考えるヒント』)まで出せたのだ。


 ところで、表題の本の中で少し引っかかった箇所がある。この著者が不思議に思うこととして、次のように書いている。

「なぜ小林ほど知的に優れていて、感性の豊かな天才的人物が、・・・・「オカルト」や「疑似科学」をナイーブに受け入れてしまうのか」(P.229)

 これについては、むしろ池田晶子さんの著作を読んでもらいたいものだ。そもそも科学というものが、一つのものの見方でしかないことを繰り返し書いているではないか。その点でも、池田さんも小林氏も共通しているように思えるのだ。


この人に訊け!(週刊ポスト2005年5月20日)

2013-10-06 15:52:40 | 
今回の書評対象は『私にとってオウムとは何だったのか』という、オウム真理教事件で死刑判決を受けた元教団幹部の手記だそうである。池田晶子さんは、オウム真理教に関する疑問を繰り返し書いているが、その謂いは宗教全般に対する疑問でもある。もちろん宗教全般がオウムのようになるわけではないが、宗教において「信じる」という行為に、常に危ういものを感じてしまう。


「一般的には、宗教とは、人間心理にとって最大のトリックである。神もしくは絶対者を「信じる」という心の働きにおいて、「疑う」すなわち「考える」という理性の働き、停止されることになるからである。考えることをやめ、信じるのみになった人の心は、どんな奇怪な観念でも受け入れることが可能になる。どうしてそれが可能なのかが、心の不思議でもあるのだが、おそらくその根底にあるのは、保身の裏返しとしての恐怖であろう。死もしくは死後への恐怖のゆえに天国を信じる、あるいは自ら判断することへの恐怖のゆえに、絶対者の言を信じる。しかし、人は、そのようにして保身されるべき自分の何であるか、あるいは死というものの何であるかを、そもそも知っているものだろうか。」(掲題書評より)

「理性により考えて、死は存在しないと知られたなら、「死後」などすべて物語だと、必ず見抜けるはずなのである。同時に、では今ここに存在している「自分」とは誰か、その謎に深く驚きこそすれ、絶対者の言を信じなければならない理由など、何もなくなるはずなのである。」(同上)


著者の早川は、自分を救済者であると特別視してエゴを喜ばせたり、グルにすべてを明け渡すという行為の中に“自分の認めた権威”というエゴがあったことを認め、本当にエゴを滅するためには、その“自分の認めた権威”すらも滅しなければいけなかった、と書いているそうである。それを評して池田さんは、大罪を犯してのちの本物の宗教心の目ざめであり、人間にとって「信じる」ということは、かくも難しいことなのだ、と結んでいる。


最後に出てきた「本物の宗教心」とは何なのか。「信じる」ことによって、「考える」ということが停止されてはいけなかったはずである。しかし根源まで「考える」ことによって、考えてもわからないものが残ったときに、信じるしかないものがあるということだろうか。「考える」ことが不十分なままに、「信じる」ということがあってはいけないことは明らかなのだろう。

この人に訊け!(週刊ポスト2005年6月17日)

2013-09-15 10:03:18 | 
週刊ポストで池田晶子さんが担当執筆していた書評記事は、残念ながら再録された本がないようである。そこで今後、入手できたものから少しだけ紹介していきたい。

今回の書評対象は、『退屈の小さな哲学』(集英社新書)である。この本は、ノルウェーの哲学教授が何もせずに過ごそうとしたが、何もしないでいることに耐えられなくて書いたそうで、退屈により書かれた退屈についての書という。このような紹介で予想される通り、池田さんの書評は辛口だ。「本書を通読しての印象は、やはりどことなく退屈である」「自らの退屈の意味を知る、タイトル通りにそういう「小さな意味で」、本書には「意味がある」」とか書いているが、池田さんにしては、随分おとなしい表現になっているものの、はっきり言って駄本と言いたそうだ。

本の著者が人生と存在には本来は「大きな意味」があるはずだと思っているということを紹介した後、池田さんは次のように書いている。

「しかし、人生と存在には、実はもとから大きな意味など存在してはいなかったとするなら、どうだろう。要求しても満たされないことによる喪失感もまた、存在しないはずである。すると、このとき、退屈とは何の謂で、人は何を退屈していることになるのだろうか。
 著者は、喪失感から哲学を勉強する気になったと漏らしているが、こんなものは救済にならないと言う。同感である。しかし、哲学が救済にならないのは、それが意味を与えてくれないからではなく、それが意味を見抜いてゆくものだからである。人生と存在という非意味の謎を見抜いてゆく哲学という営みに、退屈はあり得ない。謎には限りがないからである。」


やはり大人的な、少しおとなしい言い方に抑えてあるが、池田晶子さんらしい謂いである。

性善説と性悪説

2013-08-04 19:01:15 | 哲学
性善説か、性悪説か、という二者択一のような話にとりつかれていたことがある。本の帯に「性善説か、性悪説か」と書いてある『右手に論語、左手に韓非子』(角川SSC新書)という本を最近読んでみた。論語が性善説であり、韓非子が性悪説だそうだが、この本の著者は、現代の日本は性善説が残っている社会だが、外国や中国などは性悪説であるとしている。基本的に性善説は、人を信用する前提なので、脇が甘くなってしまうが、性悪説を前提にするならば、人は利益に執着するとみて統治することになるという。著者の立場は、性善説の良い部分を残しながら、性悪説で補完するという考えのようだ。


確かに、日本の社会は外国と比較して、性善説が前提であることを感じる場面は少なくないのではないか。田舎では、よく無人販売店があったりするし、そこまでではなくとも、自動販売機の多さに外国人は驚くという。しかし一方で、刑法をはじめとする法治国家という存在そのものが、すでに性悪説を前提としていると言える。刑法とその効力が整備されなくては、犯罪がなくならない社会ということであれば、性悪説を前提としなければならないのだろう。しかし、法律でこそ社会の安定が図れるとする性悪説に対して、そうではないやり方で社会の安定を目指すのが性善説であるから、日本の社会において性善説が残っているとするならば、その背景と歴史はよく自覚しておきたいものだ。論語が性善説であり、それが昔から読み継がれてきたことが土台にあるならば、韓国も中国も同じ土台ではないのだろうか。孔子の生誕地は世界遺産にもなっているとのことなので、性善説の土台が影も形もないわけではないはずだ。


池田晶子さんは、人は善を知れば善をなす存在としているのだから、性善説ともいえるが、悪を知って悪をなす人はいない、と言っているので、決して性悪説の対立概念として言っているのではない。


「「性善説」という言い方は正確ではない。何かうまい言い方はないものかと、かねてから思っている。「性悪説」に対して「性善説」があるのではない。人は自分を知ろうとすることによって自ずからそうなるというそのことが、言ってみれば、「善」ということなのである。誰もわざわざ「自分にとって」悪いことを、するはずがないからである。」(『あたりまえなことばかり』「善悪を教えるよりも」より)


つまり、悪が定義として自分に悪いことなのだから、人は悪を行うはずはなく、それでも悪を行なうのは、それを悪と知らないからなのだ。だから、池田晶子さんの辞書には、性悪説は定義上ありえないことになるのであろう。

通常の性悪説の悪は、利益に執着して犯罪でも起こすという趣旨であり、社会にとって悪でも自分にとっては善いと考える行動性向を指すのであるから、そもそも善も悪も相対的な意味となってしまう。池田さんは、そのような言葉の意味が相対的となるような定義は採らない。自分にとって善いということは、それは社会にとっても善いことでなければ、それは善とはいえないのだ。


ヘーゲルは、総理大臣か活用か。

2013-06-18 06:35:57 | 
『ヘーゲルを総理大臣に!』(講談社)は、題名が面白かったので、装丁が「もしドラ」のような少女アニメなのは気に入らなかったが、大分前に入手していた本だ。かつて、池田晶子さんは、自分を文部大臣にしてみよ、と書いていたが、同時にヘーゲルが総理大臣になれば、最強の哲人国家の出現である。

実はこの本は少し読み始めて、あまり面白くなかったため、しばらく放置していた。しかし、最近思い立って最後まで読んでみた。読後感としては、言いたいことはまあわかりやすいとは思うし、ヘーゲルへと向かう入門書とならないではないとは思うものの、あまり人にお薦めするところまではいかない。

この本でヘーゲルを取り上げて言いたかったことは、最終章の「生きること」に凝縮されている。自由とは決して恣意ではなく、他在のもとにありながら自分のもとにあること、を自由というと説明している。しかし一方で、ヘーゲルが総理大臣になったら、国家のために国民の生きる権利を犠牲にすることはないとし、財政再建のために社会保障費は削らないし、国や地方の借金を次世代に先送りはしないし、安易に増税もしないとまで書いている。これはさすがにもう眉唾ものであろう。こういう好い事づくめの政策を実行できると掲げて失敗したのが、民主党だからだ。ヘーゲルは確かに矛盾を克服するとはいうが、増税と財政再建と社会保障費の問題は全て現状維持のままで解決できないことこそ、歴史が証明している。


『ヘーゲルを活用する!』(言視舎)は、上述の本よりずっと面白い。こちらは是非お薦めする本である。ヘーゲルの考え方をいろんな現実問題に当てはめて活用しようというもので、現実の国際問題にも当てはめたりして、相当チャレンジな内容である。EUの国家統合は不可能であるとか、チャイナは人工軍事国家であるとか、著者の見解にすぎないかもしれないが、考えさせられる内容ではある。さらにこの本は、長谷川宏訳に触発されて執筆したとも書いてある。


上記のいずれの本も、現実の問題にヘーゲルの考え方を当てはめて解決を考えようとするものだが、理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的なものであると言ったヘーゲルだから、現実に活用できるのは当たり前だと言えるのだろう。でも池田晶子ファンとしては、ヘーゲルで睥睨したいところだ。


鷲田清一著『ひとはなぜ服を着るのか』

2013-05-25 06:28:28 | 哲学
確か新聞書評だと思うが、鷲田清一氏の『ひとはなぜ服を着るのか』(ちくま文庫)の文庫化を取り上げていて、ファッションやモードを哲学的に考えた気軽な本というイメージで読み始めた。読んでみると、服のことのみならず、皮膚や化粧にまで話題は広がり、意外に深く考えさせられる内容であった。

とくに印象深く思ったのは、概念の両面性、あるいは対立概念の含意である。例えば、ファッションは流行することを大前提としているが、それはいずれ必ず流行は廃れることも含意している。だから、ファッションは常に新しく更新されなければならない。また、制服は規律にたいする従順さを表すゆえ、その従順さを凌辱するような眼差しを呼ぶ逆の面があるという(コスプレが典型)。いずれも、対立する概念が一つのものの内部にあるのである。

さらには、境界のゆらぎ、というような考え方も面白い。例えば「下着とは、わたしとわたしでないものとの境界というよりは、むしろその二つがかさなる場所、つまり〈わたし〉であり、かつ〈わたし〉でないような、あるいは〈わたし〉の内部(インテリア)であり、かつ外部(イクステリア)であるような、曖昧な場所なのである。」(掲題書より)とある。そして、そこに他人の欲望、エロティックな視線もその場所を駆け巡るという。つまり、自他の区別は境界でゆらいで重なり合い、まるで快楽と欲望により、自他の融合を指向しているかのようだ。

このことから考えを進めると、日常に起こるあらゆる事象はもちろん、あらゆる概念は常にその対立概念をその内側に秘め、しかも融合するかのように揺らいでいるのではないか。例えば、生の対立概念は死であるが、生は死があってこそ明らかになる概念である。つまり、死がなければ生はない。実は、生という概念の内側に死という概念が含まれている。一つの概念は対立矛盾するものを常に含意するのだ。まるで生きている個体の中では、細胞が常に死んで再生しているように、その内部では生と死がせめぎ合い、生と死は矛盾し揺らぎながら、成長と老成へと進んでいく。

これはまさに、弁証法そのものではないか。



『人類哲学序説』(岩波新書)

2013-05-06 19:59:59 | 
梅原猛氏の著書はあまり好みではないものの、中をパラパラと見て、デカルトやらハイデッガーやらに触れているので読むに値する本かなと思って購入したのだが、冒頭から読み始めてすぐ、しまった!失敗したと感じた。だからこの本はお薦めできない本として紹介する。


冒頭でいきなり「人類哲学というものは、いままで誰にも語られたことがありません。人類ではじめて、私が人類哲学を語るのです。」とある。そのあと、その人類哲学の根本思想が「草木国土悉皆成仏」という仏教の教えだとしたうえで、梅原氏自身の業績に触れたりながら、アニミズム的な考え方が近代西洋文明を克服できるとする。最後の方では、プラトンのイデアを挙げて不死の思想としたうえで、「不死の思想というものは人間中心の思想であり、それは人間のはなはだ利己的な思想ではないでしょうか。このような文明ではいけません。むしろ、「人間は死すべきものだ、生きとし生けるものは死すべきものだ」という考え方こそが、人類の未来に繁栄を保証する思想ではないでしょうか。」(P.201)というのだ。


そもそも冒頭の「人類ではじめて、私が人類哲学を語るのです」とあるが、それはおかしくはないか。「人類哲学」という名称は初かもしれないが、およそ哲学と呼べる内容であるなら、その本質は人類普遍に妥当するものであるはずだ。さらに、人間が死すべきものだという考えをしないのは、宗教ではあるかもしれないが、哲学ではないのではなかろうか。哲学でいうなら、死とは何かがわからない、と言っているのである。死んだことがないからわからないともいえるが、逆に言えば、生きているからと言って、生をわかっているのか、と哲学は問うのである。


池田晶子氏の言葉はもちろん日本語ではあるが、全人類を相手にしていると堂々と述べている。

「私は、「私の」言葉、どのようにも自己限定しない自己から発せられるところの言葉、その壮大なるモノローグを、全人類相手に一方的に語り聞かせたいという、無体な情熱を隠しもっているのである。」(『残酷人生論』「全人類相手のモノローグ」より)



「養老孟司の大脳博物館」最終回

2013-04-30 22:05:05 | 時事
アエラという雑誌に連載されていた、養老孟司氏の掲題コラムが最終回になったという。池田晶子さんも一目置いていた方でもあり、アエラのこのコラムは必ず読んでいた。

最終回において養老氏が端的に言うには、「人は結局、世のため人のために生きている。」というものだった。

「あの世のことは知らないが、この世では死んだ本人は死んでも困らない。困るのは、生きている人である。私が講演の直前に死んでも、困るのは講演の主催者なり聴講者であって、私は何も困らない。」(掲題連載コラムより)

養老氏の言葉は、当たり前のことをユーモアっぽく語っているように思えるのだが、これをユーモアと捉えると、事の本質をなにもわかっていないということになるのだろう。自分が死んでしまえば、自分は無になってこの世にいないのだから、自分が困るということはありえない。あの世から自分の魂が、申し訳ないと思っているかもしれないが、そんなことはこの世ではわからないし、あの世のことは我々はわからない。

上の文章の後、養老孟司氏は、「自分の命は自分のものではない」ということが、最近の教育から抜け落ちていると指摘する。かつてそのことは、キリスト教が自殺を悪としていたように、宗教が補っていたとする。確かに、宗教に依拠することにより生きることは、ある意味精神的な支えを得ることができよう。しかし、哲学は何故そうなのか、を考える。

人は世のため人のために生きている、自分の命が自分のものではない、ということはどういうことか。人のため、というのは自分以外の人のため、ということだろう。だが、自分とは何か、すら答えはなかったはずだ(nobody)。自分とは何かがわからないのに、自分以外の人のためというのは、一体誰のためなのか。同じように、自分の命とは誰の命なのか。そもそも、人間は命を作ることさえできない(蚊さえ作れない)。人間は単に自然の摂理により、命をつないで子を作っているだけだ。自分とは、命とは、というこの当たり前の不思議さに、考えがどこまで及ぶのかわからないが、考えるしかないのである。


『倚りかからず』(ちくま文庫)

2013-04-10 01:54:45 | 
茨木のり子さんの詩の評判がいいことを知って、表題の詩集をだいぶ以前に買ったのだが、当初読んだ時は、あまり印象が良くなかった。金子みすずさんや谷川俊太郎氏のわかりやすい詩に比較して、言いたいことがすぐに捉えられず、何故か感性が合わないような感じがしたのだ。

ところが、しばらくして改めて読んで見ると、ほとんどの詩がストンと肚に落ちた。文庫の帯に「しなやかに、凛として」とあるが、まさにその形容がぴったり当てはまるような詩ばかりだ。谷川俊太郎氏の詩が子どもの感性なら、茨木のり子さんは大人の感性と言えるだろう。

題名の「倚りかからず」は、「もはや できあいの思想には倚りかかりたくない」と始まり、まさに人間精神の凛とした崇高な独立宣言のようにさえ思える。しかも、それは長い人生において見ざるを得なかった、世間の思想や権威の裏切りを見てきた末のような思いにみえる。最近、城山三郎氏の文章も読んだりしているのだが、茨木のり子さんの考え方とシンクロしている気がするのである。

なかには、国歌について「私は立たない 坐ってます」と書いている部分もある。改憲派の政治家やナショナリズムを鼓舞する向きからは反発を受けるだろうが、著者の姿勢は至って静かに凛としているようだ。

「時代おくれ」という詩では、「そんなに情報集めてどうするの そんなに急いで何をするの 頭はからっぽのまま」とあって、まるで池田晶子さんと同じような言葉にうれしくもあった。