哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

金子みすゞさんと相田みつを氏

2013-01-13 01:47:01 | 時事
思い立って、ある人に金子みすゞさんの詩集を贈った。金子みすゞさんのような感性を大事にしてもらいたいと思ったからである。震災後の公共広告で繰り返し流れた「こだまでしょうか」という詩によって、金子みすゞさんの詩が見直されて再度ブームにもなったときく。

金子みすゞさんの詩には、人間の立場を超えた視点が常にあり、その鋭くも儚い感性の瑞々しさは、本当に稀有である。代表作の「大漁」は短い詩なので全文を記憶できるが、大漁を喜ぶ人間の視点から、弔いをする魚の視点への劇的な反転が衝撃的である。他の詩にも同様の感性が見られて、人間の枠でしか見ようとしていない我々の狭い視野を反省させる。

ところで、本屋へ行って詩集のコーナーへ行くと、金子みすゞさんと相田みつを氏が大抵並んでいる。一見同じような詩人の部類に思われるからかも知れないが、実は種類が全く異なるように思う。相田みつを氏の詩は、政治家や経営者層に人気があるらしいが、その感性は金子みすゞさんとは異なり、あくまで人間の視点に留まる。前首相が取り上げた「どじょう」の話も、決して人間の立場を離れた視点にはなっていない。泥に住むどじょうを人間の視点で見ているにすぎないのだ。

池田晶子さんも実は、相田みつを氏について批判的に書いている文章がある。

「人が、「人間」の語を使用して、「人間らしい」「人間的な」「人間として」等と述べる時、それはいかなる意味なのか。
だいたいにおいて、それは、「優しい」「思いやりのある」「さまざまな感情を内包する」といったような意味であるらしい。・・・(略)
けれども、これらのすべては、語「人間」のあくまでも属性である。その列挙である。それらの属性を担っているところの当の「人間」、この主語の何であるかは、一言たりとも述べられてはいないのだ。なお厄介なことに、この語を使用してそれについて述べるのは、常にすべてが「人間」である。それで、各人勝手に好きな意味を込めて、この語を使用することになる。相田みつをの「人間だもの」はその好例である。失敗だってするさ、人間だもの。
要するに、何だっていいのである。「人間だもの」。私は、この種の自己正当化に、たまらなく不潔なものを覚える。相田に限らない。聞いていると多くの人が、この語のこの種の用い方をする(だから相田は人気がある)。「感情豊か」の意では、肯定的にこの語を用いていた人が、自身の感情的な振舞については、「人間ですからねえ」と逃げを打つ。時と場合によってどうとでもなる、この恣意性が、気に入らない。」(『考える日々3』「だって、にんげんだもの」より)

このような「人間だから」という使い方は確かに世間に多いが、この池田さんの指摘には全面的に同意する。