かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

「聞くとは」「聴くとは」、そして「人を聴くとは?」

2011-09-07 15:46:37 | サイエンズスクールのある暮らし
 台風12号が四国に上陸し、三重地方にも激しい風が呻りをあげ、雨が会場のサッシュのガラスを
叩いていた。雨音は嫌いじゃないけど、嵐の音は怖い気持ちになる。
 サイエンズ研修所で、三泊四日の「人を聴くためのコース」がはじまった。
 
 「聞く」とか「聴く」について、これまで、そのことについて、しらべてみたことが、あったかなあ?
「聞く」は、コトバや話しをふつうに聞くこと。「聴く」は、その人がなにを言わんとしているか、
注意深く聴くこと。そんなことは、考えたことはある。

 「聴く態度」というので考えたこともある。「聴く」といったら、じぶんの考えをいれないで、
「聴く態度」で聴く。「そうかあ、そうだとしたら、じぶんの考えを入れないようにして、
聴くということをやったらいいのかあ」と捉えて、それを「やろう」としてきた。
 
 「聴く」がやれてきただろうか?
 
 最近、日常化レッスンで、じぶんの中で起こる「いやな感じ」「不機嫌な気持ち」を見て来た。
人と話したあと、「結局、あの人はなにがいいたかったのだろう?」とふと心に浮かぶ作用のような
ものも、やり過ごせない感じも出て来ていた。

 「言葉ともの」「言葉とこころ」でしらべた。
 人は言葉を手掛かりにして、「もの」を表したり、指示したりしている。
 「こころ」についても、言葉なしでは表せないほど、言葉をたよりにしているけど、
人のこころのなかに起きていること、表現したいことを言葉がすべて言い尽くすことができるか
と言えば、そうだということはできない。これは、それぞれじぶんのことを振り返れば、そういえる
感じがする。その意味では、たよりにしているけど、アテにならない。
 言葉とこころそのものは、かかわりはあるが、別のこととも言えそうだ。
 
 「聞く」にしても、「聴く」にしても、相手の声音や言葉をじぶんの耳で受け止めるところから
はじまるだろう。
 「受け止める」というとき、そこでじぶんのなかでなにが起きているか。
 「相手の言葉をじぶんなりに、捉える」ということが起きているのではないか。
 
 こういうことは、「聞く」「聴く」を辞書で引いても、心理学や哲学の本を読んでも、
論理的に整然と述べられている。

 日頃の暮らしのなかで、自分の「聞く」とか「聴く」はどうなっているのだろう?

 じぶんの日頃を振り返ってみると、
 妻から「電気消さなかったでしょ?」と聞くと、「おれは、消している」と応えている。
 SCSの人から「車で子どもをおくってほしい」と聞くと、「はい、やれるよ」と応えている。

 どこも、おかしいことはないはず。
 でも、もうすこし、丁寧に見てみると、妻が「電気」といい、「消す」といい、、
それは妻がいろいろな思いがあるなかで、そこから出て来た「電気」であり、「消す」であるはず。
その言葉を聞いたじぶんは、そのことを自覚していたか。
 そのへんは、どうも、妻の言葉を聞いて、じぶんのなかに立ちあがった「電気」「消す」に
反応して、それにたいして「おれは、消した」と返している。
 「妻のいろいろな思いがあるはず」のところには、関心が向いていない感じがする。

 「車」「子ども」「送る」も、丁寧にみたら、じぶんのなかで捉えたもので、最後は「やれるか」
「やれないか」だけの話になっている。SCSの人が、どんな思いのところからそう言ってきたか、
そこに関心が向いていたかどうか、それによっては、「やれた」「やれなかった」で終わってしまうか、
もうすこし、お互いが次につながって行く感じで、豊かな会話になっていくかの、分水嶺がありそうだ。

 台風は北へ抜けて行ったようだけど、どんより曇っている。
 ぼくは、なにか晴れ晴れした気持ちだった。
 結構、「聞くとは」「聴くとは」をしらべ、それがどういうことか「分かった」つもりに
なりかけていた。
 そんな時、「今から、6つの言葉を言うので、じぶんのなかを観察しながら、ぼくの話しを
よーく聞いてください」と小野さんから練習問題があった。
 結果は、惨敗だった。
 どう惨敗だったかは、はっきりしている。
 自分が捉えた6つの言葉の場面と、小野さんが言った6つの言葉の、実際あった場面とは凡て
ちがっていた。もし、合っていたとしても、「ぼくの話しを聞いてください」と言った、”ぼく”には、
まったく関心がいっていなかった実際が白日のもとに晒された。もう、笑うしかなかった。

 言葉は、人のこころの、ほんの一部の表れ。
 「聞く」「聴く」といったら、その言葉を耳で受け取るところからはじまるけど、その言葉が
人のこころの一部だけのものであり、しかもその言葉をじぶんなりにしか捉えられないものだと
するなら、「聞く」「聴く」はどういうことになるか?

 「人を聴く」
 あまり、馴染みのない表現。
 この表現で表したいこと。
 人から発せられる言葉は、その人の広大無辺のこころのほんの一部だけ、もしくはその人の
心を理解していこうとしたらその言葉が出てくるもとのところに関心を向けざるを得ない。
 その人の言葉とこころは、その人の中のこと。自分が「どう聴いた」とは、まったく関係ない。
 「人を聴く」とは、言葉など通して、その人のこころを理解しようとする営み。

 「人を聴く」を妨げるもの。
 じぶんの実例で、繰り返し、しらべた。

 台風前に種まきしたチンゲン菜の芽が出た。
 虫よけをしたいと妻に行った。
 妻はインターネットで調べた防虫法のノートを見せて、「マルチを張る方法もある」と
言った。ぼくは、即座に「マルチは使わない!」と言い切った。
 その、会話のあと、歩きながら、「惨敗だ」というのがでてきた。

 「人を聴く」
 もし「人を聴く」が実際に表れたら、どういうことになるか?
 言葉の奥にある、その人のこころに関心が向いたらどういうことになるか?

 おそらく、むずかしいことではないはず。
 お母さんが、赤ちゃんに接するとき、泣き声や様子を見ながら、何を要求しているか、
見極めようとする。ごく、自ずからなるこころの作用だと思う。
 そこに表われているもの、その作用のことを、”親愛の情”とも言っていいのではないか。
 それが、なにかに妨げられて、発露しなくなっている場合が多いのではないか。

 ノートを見せてくれた妻が、どんな気持ちでそれを見せてくれたか。
 インターネットで、しらべようとした妻のこころは?
 そういうことに、まず関心がいっていたら、「マルチは使わない」と即座に出て来ただろうか。
 「そうか、しらべていたのか」からはじまって、「どんなこと思った?」と会話が
はじまったのではないか。
 「マルチを使うか、使わないか」の議論で終わることは、なにかさびしい。
さびしいというのは、どんなことの表れだろう。
 妻のこころを遮った。
 遮っただけではない、じぶんが幅っていた。
 「幅る恥ずかしさに気づく」と山岸巳代蔵さんは言っている。
 妻からの発露、健康正常な作用を受け止めていないことは、じぶんのなかから生じている
健康正常な作用をも、無理に妨げていることになっているのでは?
 人と人の間にあるはずの”情”が、そこで切れてしまうもの。さびしいもの。
 
 
 会話が実現したら、次から次へとひろがっていくことになるだろう。こころ豊かな世界が
お互いのなかに、表われてくるのではないか。

 台風は、通り過ぎて、日射しが戻ってきた。
 


 

  




 















 

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