かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

六十にして耳順(したが)う(2)・・・「自分の生き方のなかの社会」

2012-08-11 01:25:20 | サイエンズ研究所のある暮らし

「社会」ということについては、いろいろな本を読んで、知識ではゴチャゴチャ

と頭にありそう・・・

 カレッジで「じぶんの生い立ちのなかの経済生活とお金」の発表を終わって、

はっとしたことがある。

 大学四年のとき、授業料未納で「除籍」を選んだ。

 そのとき、「これからは親の世話にはならない」と固くおもいこんでいた、

ということにハタとおもいあたった。

 そのもとのこころの状態は「いまから社会の荒波に一人漕ぎ出す」

社会というのは、じぶんの外にゆるぎなくあって、立ち向かっていくもの、

そんな感じがベースにあったようだ。

 これは、知識ではない。じぶんを元の元で、じぶんの生き方を左右させて

いるような感情とでもいうのか。

 

 

 そうした元のもとの感情について、自覚があったかなあ?

 「社会」というものが、なにかじぶんと離れてあって、よそよそしいものとして、

否定や無視をしてきたが、検討する対象にしてこなかった?

「社会」を人の力ではどうすることもできないと、固定化していた?

意識のうえでは、社会を変えなくては、とおもいつつ。

どこかで、諦めつつ・・

 それは、60過ぎた、いまもつづいている?

 

 研究所サロンでは、資料を検討するというより、そこから一人ひとりが

「社会」というものをどうとらえていたかを、じぶんのなかを検討した。

 

 おもいあたることが、ある。

 集団の暮らしをしていた2000年ころ。何人かが「やりたい気持ちでやる、

やりたくなかったらやらならなくてもよい」と言い始めた。実際に職場に

行かない人もでてきた。

 そのときの見え方。

 「現実にやるべきことが目前にあるのに、そんなことしていたら、職場が

成り立たない」

 職場という組織が成り立たないということは、「そんなことしたら社会の

秩序が崩れてしまう」という感覚。そういうのが、はっきりあった。

 

 鈴鹿に引っ越してからも、「やりたい人でつくっていく社会」を目指しながら、

どこかで、じぶんの中がそうなっていないなあ、と感じてきた。

 おふくろさん弁当で、仕事をはじめた。

 「何キロ、つくってほしい」と発注がくる。

 そのときの、じぶんの受け止め方。

 「発注がきたら、やるもんだ」となっている。

 仕事にケリがついたあとで、 「何キロ、追加してほしい」とくる。

 「やりたくない」という気持ちが先ずでる。

 「やれるかなあ?」と聞かれる。

 「やれないことはない」と応える。

 

 ちょっと、飛躍するかもしれないが、このときのじぶんは「やらなくっちゃ」

というのがベースになっているようだ。

 「やらなくちゃ」というのがあると、じぶんの本心になかなか向き合えない。

 

 「やりたくない」というのが本心かどうかは別にして、じぶんのなかから

湧いてきたものを抑える感じがある。

 静かに、その感覚について観察してみると、人を大事にするというより、

やるべきことを先ず優先している。人より職場や秩序を大事にしている

ことになるのでは?

 意識の上では、「自由」を求めながら、じっさいは秩序の方から

じぶんを制限したり、縛ろうとしている。じぶんにそうしていることは、

他の人にも及ばないはずがない。

 

 このことに無自覚な人たちで構成する社会は、「やらなくちゃ」を

ベースにした社会になるだろう。

 「社会」ということをかんがえるとき、ここは急所だなと、しらべていく

イトグチを感じた。

                                                                     (つづく)

 

 

 


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