平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平氏の追討軍を加賀篠原で破った木曽義仲は京を目指しますが、
比叡山延暦寺がその行く手を阻みます。
今回は篠原合戦後から都入りまでの義仲の行動に注目したいと思います。

古くから平氏と比叡山との間には密接なつながりがあったため、
数千の僧兵を抱える比叡山が義仲に対して
どのような態度をとるのか全く予測できません。
義仲の右筆の覚明は比叡山に協力要請の文書(蝶状)の筆をとるとともに、
旧知の有力僧に働きかけ大衆の詮議が有利に運ぶようにとの工作をします。
比叡山で出家した大夫房覚明は、興福寺にいたことがあり、
儒学にも仏教にも通じ、政治的な見識の乏しい義仲軍にとっては
唯一無二の貴重な存在でした。

蝶状にはこれまでの平家の悪行を記し、
神仏の加護が義仲に大勝利をもたらしたことを述べて
「義仲は今比叡山の麓を過ぎて京に入ろうとしている。
比叡山衆徒は平家に味方するのか、
源氏に味方するのか選択しなければならない。
もし平家に味方するのであれば義仲は衆徒と合戦することになる。
そうなれば延暦寺は瞬く間に滅亡するであろう。願わくは神のため仏のため、
国のため、君のため、衆徒が源氏に味方することを望む。」と記しました。

「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と
白河法皇を恐れさせ常に我意を通してきた延暦寺に対して
「そもそも天台衆徒、平家に同心か、源氏に与力か。」と
脅迫まがいの文面で、毅然たる態度で選択を迫るものでした。

蝶状を受取った比叡山では東塔・西塔・横川の僧らが集まって、
東塔の大講堂の庭で、
はてしない論議が続いたが、
命運尽きた平氏に味方しても何になろう。と
結局、源氏に味方することになった。
義仲の動きに慌てた平家側も平宗盛以下、
一門の連名で丁重な願文を送っている。
その内容は「日吉社・延暦寺を平氏の氏社・氏寺にしようといい、
源氏の軍勢打倒の祈祷と平家のための加護を求める文書」でしたが、
もはや手遅れでした。

寿永2年(1183)7月22日、延暦寺を味方にした義仲は比叡山に上り、
衆徒の協力を得て東塔の総持院に城郭を構えます。
ここでいう城郭とは、
姫路城などに見られるような天守閣がそびえる近世の城郭とは異なり、
周囲に深い堀をほり、垣楯(楯を並べて垣のようにすること)を立て、
逆茂木(刺のある枝を並べて垣にすること)を引いただけの
臨時の粗末な軍事施設です。こうして比叡山を占拠した義仲は上洛します。

当時の都の状況は、三年にわたる養和の大飢饉直後であり、
多くの餓死者があふれ、全ての庶民が飢えていました。
このような所に兵糧米の準備のないまま
5万余騎もの大軍が入るのは明らかに無謀でした。

養和の大飢饉とは、
頼朝や義仲が挙兵した治承4年(1180)の異常気象に始まり
養和2年(1182)まで全国的に飢饉となり、
特に西国では大飢饉となり餓死者は路傍を埋め、
疫病の流行にともなってさらに被害が拡大した飢饉です。
『方丈記』によれば、仁和寺の僧が弔いのために、
道ばたの餓死者の額に「阿」という文字を書いていったところ、
左京だけでもその数は4万2千3百あまりあったという。
飢饉の年あけを待った平氏軍は寿永2年(1183)4月、
北陸道の叛乱鎮圧に向かいますが
事前に大軍勢の遠征を賄う兵糧米を確保することができず、
路地追捕(強制取立て・略奪)を許されて出陣しています。

治承4年(1180)10月、富士川合戦の勝利後、
源頼朝は平氏を追って一挙に京に攻め上ろうとしますが、
三浦義澄・上総広常・千葉常胤らが、
まず東国を固めるべきであると主張したため、頼朝は兵を返し、
幕府の基礎固めに努めてきました。

義仲も北陸に留まって、
頼朝のように地盤を固めようとは思わなかったのでしょうか。
越前国府(武生市中心部)で義仲は部下を集めて評定を行なっていますが、
この時、論議されたのは延暦寺に対する政治工作であり、
一旦、基盤となる北陸道の支配体制を固めて、地域政権の拠点を築くことが
先決であると気がつくブレーンが義仲にはいませんでした。

信濃や越前南部・北陸道南西部の在地領主らの寄せ集め的な集団であった
義仲軍には次のような事情もあったと推測されています。
① 安元事件以来、白山宮と延暦寺の衆徒の間には強い結びつきがあり、
北陸道の合戦には延暦寺の僧兵も加わっています。
白山宮衆徒の勢力に支えられていた義仲の行動は、
白山宮・延暦寺衆徒連合に強い規制を受けざるを得なかった。
しかしこうした素地があってこそ
覚明の延暦寺に対する政治工作は成功したと云えるのでしょうが。

② 頼朝・義仲の叔父で以仁王の令旨を諸国の源氏に伝えた行家が、
頼朝とうまくいかずに当時、義仲を頼っていましたが、
本来畿内を拠点としていた長老的存在の行家の希望を
義仲は無視することができませんでした。

③ 北陸道は京に直結し、越前の小規模な在地領主は在京の武者として
権門勢力へ臣従・家人化し、領主経営の拡大をはかる者が多かったこと。

こうした体質が重なりあって、義仲軍を越前に留まらせることなく
飢餓と策謀渦まく京へと直進させます。

*安元事件とは安元2年(1176)、後白河院の近臣西光の子である
加賀守藤原師高の目代として派遣された弟師経が
社寺や貴族の荘園を没収するという暴政を行ないました。
ある日、目代は白山中宮八院の一つ鵜川の涌泉寺に踏み込みました。
涌泉寺は白山の末寺です。
これに憤慨した白山の大衆が国衙を襲撃して目代を都に追い返します。
さらに白山は本寺延暦寺に訴え強訴を展開し、
師高は尾張国へ流罪、目代は投獄されました。
これに対し西光は後白河院を動かし
天台座主明雲を解任し伊豆に流罪と定められました。
これに反発した延暦寺の衆徒が院への対決姿勢を強化した事件です。

 『参考資料』
上横手雅孝「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 上横手雅孝「源平争乱と平家物語」角川選書
浅香年木「治承・寿永の内乱論序説・北陸の古代と中世2」法政大学出版局
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 
河合康「源平合戦の虚像を剥ぐ」講談社メチエ 河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館
高坪守男「旭将軍木曽義仲洛中日記」歴史史料編さん会 「木曽義仲のすべて」新人物往来社 
中野孝次「すらすら読める方丈記」講談社

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


« むざんやな甲... 平忠度都落ち... »
 
コメント
 
 
 
そのようです! (sakura)
2013-01-23 11:48:01
頼朝には大江広元、三善康信はじめ都から下ってきた多くの下級官吏たちが政治顧問として仕え、頼朝も彼らを重用し大切にしています。
また頼朝自身にも政治家としての力量があったようで、後世、北畠親房などの史家が頼朝の政治家としての器量に高い評価を与えています。

一方の義仲は武将としては優れていましたが、政治力がゼロ。
都入りしてからは法皇や貴族、頼朝の間で交わされる陰湿な政略に対応する
政治力が必要でしたが、比叡山との交渉にあたった覚明がいつの間にか姿を消します。
義仲には覚明のような知識人を見る目がなく、義仲が遠ざけたと考えられています。
 
 
 
歴史書では起きた事柄の列挙だけですが… (yukariko)
2013-01-21 19:15:49
世の目立った動きとして歴史の表には出ませんが、日照り、冷害、地震、疫病はどれも庶民の暮らしを無残に壊し餓死者が多く出るのに、対策も施されず、無残な世相をより無残にしますね。
見えないところで大きなうねりが動いて時代も動くのかしら?
でも、前回、北陸道の鎮圧に向かった兵士も遠征の兵糧米を確保できず略奪を許さなければ戦にも行けないほど都では困窮していたでしょうに、そこへ補給の手立てもなく沢山の軍勢が入り、施しをするどころか少ない食料を取り上げたら、怨嗟の声は高まるばかりで、平氏を討ったという手柄も吹き飛んでしまったのでしょう。

焦って時を待てなかった義仲!、情報を得て、足場固めをし、火中の栗を拾うのは他の兄弟にさせて、うまく立ち回った頼朝。
やはり、周りにブレーンがいるといないの差でしょうか?
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。