平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



朝日神明社は、皇大神社(此花区川岸町の鎮守社)を根幹とし、
明治になって朝日神明社(東区神崎町)、安喜良神社(西区阿波座)を
合祀し、この社名としたものです。

もとは皇大神社(天保年間創建)のあった安治川のほとりの
川岸町にありましたが、昭和6年現在地に移建しました。

最寄りの阪神なんば線西九条、JR大阪環状線西九条駅前。

屋島攻めの際、義経と梶原景時の「逆櫓論争」という有名な話があります。

義経は朝日神明社に祈願をこめているので戦勝疑いなしと
景時の論を退け平家を追討しました。この故事により
当社は逆櫓社(さかろのやしろ)とも呼ばれるようになりました。

東の鳥居



南の鳥居

初詣の参拝者でにぎわう境内。

拝殿その背後に本殿。

拝殿、左手に見えるのは平成6年に再建された摂社の春日社。

拝殿内部。

御祭神は、天照皇大神・倭比売命・春日大神・菅原道真。
合祀した安喜良神社は、菅原道真自刻の木像を
祭神として安置していたと伝えています。
太平洋戦争による空襲で境内は全焼し、
現在の社殿はすべて戦後に復興されたものです。

南の鳥居を入ると由緒書きがあります。

由緒  
當朝日神明社は、朝日・日中・夕日の浪速三神明の
一つとして有名であった朝日宮(東区神崎町)と
皇大神社(此花区川岸町)を合祀したものである。

朝日宮(逆櫓社)は朱雀天皇の天慶年間(九四〇年頃)に
平貞盛の創建するところであって
「承平・天慶の乱」の後、
貞盛の戦勝を叡感された朱雀帝は当社の御神徳を称えられ、
朝日宮という神號を賜わったという。  

當社はまさに勅願の故もあって豊臣秀吉 の崇敬も厚
く、
年々米百俵を寄進された。
又、元和元年(一六一五年)の 大阪夏の陣 に際し、
真田幸村 が当社に金色の采配を、 奉納して出陣したという。

 尚、源義経 が平家追討の途次朝日宮に戦勝の祈願をされた。
「一の谷」の合戦後、梶原景時 と史上有名な 「逆櫓の論」があったが、
義経は、當社に祈願をこめ
ているので戦勝疑いなしと
景時の論を退け平家を西海 に討滅した。
此時より当社を一名逆櫓社ともいわれる ようになったのである。

 皇大神宮は古くより川岸町に在った。この川岸町は 、
かつて南新田といわれたが伊勢神宮 の御分霊を乞い 受け
神詞を造って新田の鎮守の社として奉斎していた 。
 皇大神社は、明治四十年に朝日宮を合祀して、
「朝日神明社」と社號を改めた。
しかし川岸町一帯は世の 進むにつれ工場地として
発展した為、昭和六年現在地に遷宮した。

 第二次大戦中(一九四五年)惜しくも戦災を受け
當社境内は もちろん春日出一帯は焼土と化したが
戦後総代・氏子 崇敬者諸氏の尽力によって本殿・幣殿・
拝殿・そして
手水舎を復興し、現在に至っている。
朝日神明社(説明板より)
屋島出撃の際、義経が風雨の鎮護を祈願した朝日神明社跡(坂口王子伝承地)  
『アクセス』
「朝日神明社」 大阪市此花区春日出中1丁目6

JR大阪環状線西九条駅下車徒歩約30分
又は大阪シティバス「春日出」下車 南へ250m

『参考資料』
「大阪府の地名」平凡社、2001年 
三善貞司「大阪史跡辞典」清文堂出版、昭和61年

 

 

 



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