平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






吉備津神社近にある鯉山(りざん)小学校の東隣に
瀬尾太郎兼康の墓と伝える宝筐印塔があります。

瀬尾(せのお)兼康(?~1183)は、現在の岡山市と倉敷との中間辺の
妹尾(現、瀬尾町)を本拠地とする豪族で、剛勇の名をとどろかせた
平家譜代の家臣です。
保元・平治の乱にも平家方として戦い、
鹿ケ谷事件では藤原成親(なりちか)の拷問役も務めています。


古代、岡山・倉敷辺りは海で、児島半島は内海の一つの島であり、
源平時代には、この辺の大半は海で北の山際まで海が入り込み、
一面に湿地帯が広がっていました。
その湿地帯を開拓した兼康は領地を守るため、備前の難波経遠らとともに
平氏の家人となり、その繁栄を支えたのです。





中世中頃の宝篋印塔です










寿永2年(1183)4月、倶利伽羅合戦に出陣した瀬尾兼康は、木曽義仲配下の
倉光成澄(なりずみ)に生捕られましたが、義仲は名高い勇士を
討つのを惜しんで命を助け、成澄の弟倉光成氏にねんごろに世話をさせます。

『平家物語(巻8)瀬尾最期の事』の章段には、
同年10月、都落ち後に勢力を盛り返した平家追討に山陽道へ向う
木曽軍の道案内を申し出た兼康の最期を描いています。

 平家が都落ちすると倶利伽羅峠で大勝利した義仲が北陸路から
京都へ入ってきましたが、義仲の都での評判は田舎育ちの
乱暴者ということで、決して芳しいものではありませんでした。

一方都落ちした平家は屋島を拠点として体制をたて直し、
水島合戦(倉敷市玉島)で木曽軍に勝利し、屈辱を晴らしました。
この知らせを聞き、義仲は西国へ馳せ下り平家を討とうとしていました。

「瀬尾兼康は倉光成氏に『私は倶利伽羅合戦で命を助けていただいた身、
今度の合戦では、この命を木曽殿に捧げます。ところで私の領地妹尾は
牧草の豊富な所です。これをお世話になった貴方様に献上します。』と
故郷の妹尾をへ案内すると言って、倉光成氏を誘いだし
山陽道を下り妹尾に着くやたちまち反旗を翻し成氏を殺害しました。

兼康の裏切りに激怒した義仲は、今井四郎3千余騎に兼康討伐を命じます。
一方の兼康は地元の兵2千余人を集めて備前国福隆寺縄手に城郭を構えて
義仲軍を迎え撃った。と言っても、若い武者や武具・馬は平家根拠地の屋島に
差出し、集まって来たのは、即席に造った武器を手にした老兵ばかりでした。

にわか造りの城郭はしだいに攻め落とされ、ついに主従三騎となり、
馬も射られて徒歩で西へと逃れて行きますが、息子の宗康は
若いのに太っていたので、疲れてもう走ることも動くこともできません。
このままでは敵に追いつかれると、兼康は息子を見捨てて10町ほど
逃れて行きましたが、やはりわが子を捨てきることができずに引き返してきます。

宗康は「こんな身体なのでここで自害するつもりでした。私のために
父上の命まで失わせることはできません。どうか早くお逃げください。」と言うが
兼康は「もう覚悟はできている。お前と運命を共にしようと戻ってきた。」と
言って聞き入れない、そこへ今井四郎兼平の大軍が襲いかかりました。
兼康は敵5、6騎を射落とし、矢がつきると太刀を抜いて息子の首を落とし、
敵の中に斬りこみ奮戦の末についに討死しました。」

瀬尾兼康は屋島にいる平家と合流するため、無謀を承知で恩ある
義仲軍相手に合戦を繰り広げ、最期まで平家に忠誠を尽した武将でした。
兼康の首を見た義仲は「あっぱれ、剛の者かな。
もう一度助けておきたかった。」とその死を惜しみました。

2歳で父を失い、木曽の中原兼遠のもとに預けられた義仲には、
譜代の家臣とよべる者はなく、義仲が旗挙の際に集まった
人々の多くは義仲の誠実で純朴な人柄や中原兼遠一族の
努力によるものが大きかったと思われます。
義仲はこれまで知らなかった譜代という主従の縁に殉じる
武士魂に相対し深く感動しています。またわが子を見殺しにできなかった
兼康の心情にも共感したのではないでしょうか。
 『アクセス』
「妹尾兼康供養塔」岡山市北区吉備津 
JR「吉備津駅」より徒歩10分
 『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
水原一「平家物語の世界」日本放送出版協会 佐伯真一「戦場の精神史」NHKブックス
「岡山県の地名」平凡社 「岡山県大百科事典」(上)山陽新聞社

 

 

 



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