風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

原発事故から日本を救った男

2013-07-11 02:09:46 | 時事放談
 東京電力福島第一原発の事故当時に所長だった吉田昌郎氏が、昨日、亡くなられました。享年58歳。食道がんのため、と報じられましたが、昨年7月には脳出血で倒れて自宅療養を続けられており、原発事故によるストレスで死期を早めたのではないかとお悔み致します。また、全てを語り尽くされたのか、墓場に持って行かれた情報はなかったのか、もはや公人としての吉田氏の突然の死が惜しまれます。
 当時、現場に細かく介入してくる首相官邸と東電本店に対峙して現場の判断を貫き通し、水素爆発した一号機への海水注入を巡って、「首相の了解がない」と原子炉冷却のための海水注入中断を求めた本店の指示に反し、独断で続行した気骨の人として知られます。第一原発が初めて報道陣に公開された一昨年11月、事故直後を振り返り、「もう死ぬだろうと思ったことが数度あった」「終わりかなと感じた」などと語られました。また、昨年8月に福島市で開かれた出版社主催のシンポジウムにビデオ出演した際には、「(3月14日の3号機水素爆発時について)自分も含めて死んでもおかしくない状態だった。10人くらい死んだかもしれないと思った」「放射能がある現場に何回も行ってくれた同僚たちがいる。私は見てただけ。部下は地獄の中の菩薩だった」とも語られました。
 折しも、前日に、原発の新規制基準が施行され、北海道、関西、四国、九州の4電力会社が計5原発10基の再稼働に向けた安全審査を原子力規制委員会に申請したばかりで、時の経過を思います。もとより、企業人の一人として、原発がなくても電気は足りているではないか、などと軽率なことはとても言えませんし、あんな事故を起こしておいて再稼働はないだろう、といったような直情的な反応にも違和感を覚えます。だからと言って、シェールガス革命により天然ガス・コスト低減の追い風が期待できるものの、再生可能エネルギーに頼るには時期尚早で、原発再稼働を急ぐべきとは言え、福島第一原発事故の真摯な反省の上に、再発防止と安全宣言の誓いがあって然るべきですがどうもそのように感じられないのが、なんとも不満です。
 乱立した事故調査報告書は何だったのか。政権交代した今だからこそ、原因究明の壁も低かろうと思うのですが、安倍政権は興味がなさそうに見えるのが、解せません。竹中平蔵さんは、近著で、国会事故調の委員長を務めた黒川清さんから「竹中さん、是非話しておきたいことがる」「委員会(と言うより事務局の意か?)には絶対民間人を入れなければダメだ」と言われたエピソードを紹介されていました。「行政の隠れ蓑としての審議会」という言い方があるそうで、何かと言うと委員会のメンバーに民間人や学者を揃えて何回か会合を開き、あれこれ意見陳述させた上で、「はい、分かりました」と事務局の官僚が引き取り、所謂「霞が関文学」を駆使して、全てを自分たちの都合が良いように変えてしまう、また合い間に出してくる資料も、自分たちの主張を裏付けるものだけで、結論は最初から決まっている・・・と、竹中さんは解説されます。官僚の権益に斬り込むことで官僚の反発を買い(それを真に受けるマスコミの反発まで買い)官僚と敵対する(マスコミ受けも悪い)竹中さんらしい率直なモノのいいです。そうさせないために、黒川さんは国会事故調の事務局に民間人を入れたけれども、政府事故調の方の事務局は官僚が独占したため、委員長代理の柳田邦男さんが何を言っても受け入れてくれなかった、と黒川さんは言われていたそうです。ことほどさように、官僚と準官僚である東電の壁は厚そうです。
 他方、福島第一原発事故のノンフィクション「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」を執筆したジャーナリスト・門田隆将氏は、吉田氏のことを、「官僚主義的と批判される東京電力の中でも破天荒なタイプだった。取材時も『隠すことは何もない』と全て赤裸々に語ってくれたのが印象深い」と語っておられます。彼の次の言葉で以て瞑すべきでしょう。「部下たちからも信頼が厚く、『吉田さんじゃなかったらだめだった』と口を揃えていた。私たちは、事故当時に吉田さんが福島第1原発にいたことを感謝しないといけない」。合掌。
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