風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

「力こそ正義」という世界

2022-03-19 10:11:35 | 時事放談
 軍事力の裏付けのない外交など意味がないと言われる。ウクライナ情勢を見ていると、やるせない無力感に囚われてしまう。
 以前、このブログで書いたように、故・高坂正堯氏は、国家は、「力の体系」(=軍事力)、「利益の体系」(=経済力)、「価値の体系」という三つのレベルの複合物だと言われた。困ったことに、今、ウクライナでお騒がせのロシアは、帝国を志向する19世紀的な野心を抱き、力(=軍事力)こそ正義と信じて疑わない国で、軍事力でぐいぐい押しまくる(何しろ経済力は韓国やカナダやイタリア並みで非力だから)。また、アメリカと張り合うことで21世紀の国際社会の行方を左右しようとする中国も、やはり帝国を志向する19世紀的な野心を抱き、力こそ正義と信じて疑わない国で、こちらは、軍事力をちらつかせながら、経済力で威嚇する。他方、ポスト・モダンの欧米は、19世紀的な野心を打ち消すような「利益の体系」を代表し、それを守るためにハードパワーとしての経済力をバックに、ロシアや中国と対峙する。今、私たちが目撃しているのは、軍事力を行使することを厭わない(何の倫理的な後ろめたさも感じない)ロシアと、ロシア“帝国”の一部だとプーチン大統領に睨まれてしまったウクライナ、ひいては、西側の価値が侵攻を受けているとしてウクライナを後方支援し、軍事的対決を避けて経済制裁という経済力でなんとか抑止を図ろうとする日・米・欧との、非対称の、という意味では極めて現代的な戦争だ。非対称であるが故に、単純な戦力比較は難しく、我慢比べになりかねない。
 ロシアのプーチン大統領について、最近はその狂気あるいは異常ぶり(パーキンソン病説もある)を検証しようとする記事が多く出回るが、今に始まったことではないと主張する声も根強い。とりあえずは評価を避けて、開き直った独裁者と言っておこう。こうなると西側が明確に軍事的な対抗措置を取らない中で外交交渉するのは容易ではないのが見て取れる。身も蓋もない話になるが、ヨーロッパの近くにロシア(や中東)がなければ、また日本の近くに中国(や朝鮮半島)がなければ、どれだけ幸せなことだろうかとボヤきたくなるが、世の中には「力こそ正義」として「力」(狭い意味で言うと、軍事力)に頼る国があるのが厳然たる事実だ。
 以下は余談である。
 私の学生時代と言えば、所謂「進歩的知識人」が全盛で、『朝日ジャーナル』の筑紫哲也編集長など今で言うリベラル派が言論界を席巻した時代だった。しかし私は、友人の下宿の本棚に社会党・石橋書記長(当時)の『非武装中立論』が鎮座しているのを見ても違和感を覚えて食指が動かず、倉前盛道氏の『悪の論理』(=地政学の概説書)に手を伸ばすような、へそ曲がりだった。そんな私が、「力」の持つ意味合いを肌身に実感したエピソードがある。
 大学2年が終わった春休みに肉体労働のアルバイトをしたときのことだ。中学時代の幼馴染と、近所の物流倉庫の所謂「飯場」に詰めて、一日5千円でひたすら肉体を酷使していた。当時の私は家庭教師のアルバイトをしていたので小遣いに困ることはなかったのだが、大学生活にも飽きて、ちょっと外の空気を吸ってみるか・・・といったほんの気紛れだったのだろう。タバコの煙がもうもうと立ち込める飯場で達磨ストーブを囲んだのは、現場監督のおっちゃんの外に、高校時代は暴走族で鳴らしたという同い年の大学生と、校内暴力がもとで高校を中退したばかりの血気にはやるヤンキーのお兄ちゃんと、私たちとの4人の若者だった。初顔合わせで、見るからにごく普通のいでたちの私たちを見て、身分(大学名)を確認したヤンキーのお兄ちゃんは、なんでわざわざこんなところに働きに来るんや?! とボソッと呟いて、違う種類の動物でも見るような胡散臭そうな眼差しを向けたものだ。こうして、さしたる共通の話題などあろうはずはなく、殺伐とした雰囲気の中で日々を過ごしていた。あるとき、幼馴染が四方山話の中で、肘を痛めて腕相撲が弱くなった(昔は強かったのに)などとジジイのようなボヤキを始めると、ヤンキーのお兄ちゃんが即座に反応して、その場で腕相撲の挑戦を受けることになってしまった。ヤンキーのお兄ちゃんとしては、ここぞとばかりに「力」を見せつける好機と見たのだろう。自信満々で臨んだはずだが、あろうことか、ひ弱と蔑んでいたはずの私に負けてしまったのである。まさかの展開に、元暴走族の大学生は、一瞬、意外そうに一瞥をくれたものの、すぐに興味なさそうに顔を背けたが、ヤンキーのお兄ちゃんはその後、手のひらを返したように恭順の意を示すようになった。どういう風の吹き回しか、近い内に京都で飲みに連れてってえな・・・などと(彼女にスキーをねだられるならともかく)擦り寄って来るので、高校生の分際で(いや、中退していたが)馬鹿なことを言うな、と言いたいところを、ぐっと堪えて、その内にな・・・と、はぐらかし続けた。喧嘩をすれば、私の方がイチコロで負けていただろうに、ひ弱な優等生!?の腕相撲「力」を意外に思ったものだった。
 幼稚な、まさに幼児体験だが、寓話として成り立たないわけではないだろう。爾来、「力」を信じる世界があって、とりわけお互いを知り尽くさない余所行きの関係にあっては、たとえハッタリでも、ある種の「力」が威力を発揮し得ること、それがないと足元を見られて突っ込んだ会話にはならないだろうこと(国家間であれば外交交渉に繋がらないこと)、そして、それは「力」以外の「利益」や「価値」に引け目があるせいでもあろうことを、幼児体験として植え付けられたのだった。
 あらためて言うまでもないことだが、重要な前提条件を確認したい。それは「力」を信奉する相手にこそ「力」を見せつけることに一定の効果があるということだ。逆に、西欧や日本のように、近代的な戦争はもうこりごりだと思うポスト・モダンの世界で、核廃絶や非武装中立を心から信じて、憲法9条をノーベル平和賞に推薦するような人たちに、「力」を見せつけたところで、暖簾に腕押しで、むしろ嫌悪されて、何の役にも立たないのは論を俟たない。しかし、世界を見渡せば、大国になるほどに大国らしく振舞い、大国らしくもてなされることを望む威信の大国(=中国共産党に乗っ取られた国)もあれば、北極海を背に南方の国境を包囲されているかのような被害妄想に囚われて、「力」で押し返そうとするミドルの国(=プーチンというマフィアに乗っ取られた国)もあり、さらに人民が極貧に喘ごうがお構いなしに虎の子の核武装に突き進んで、王朝存続に汲々とする小国(=正統性にこだわる金王朝三代目が継承する国)もある。これら三国では、いずれも人々は「国民」ではなく「人民」と呼ばれ(但しロシアでは形ばかりの選挙があるから、一応、国民の負託を受けた形になっている)、人民の自由意思は尊重されない代わりに、何らかの統治の正統性を問われ続ける宿命にあるという、決定的な弱点を抱える。何より、これら三国が東アジアの(日本と目と鼻の先の)地で国境を接するとは、なんという不幸であろう。
 安倍元首相が、ニュークリア・シェアリング(核共有)の議論を否定すべきではないと主張されたことが物議を醸した。政治家のセンセー方は、せめてニュークリア・シェアリングのお勉強はして、非核三原則(とりわけ三つ目の「持ち込ませない」)の虚妄を論じて、あらためて東アジアの「力こそ正義」とする厳しい現実について認識合わせをしてもらいたいものだと思う(必ずしもニュークリア・シェアリングを勧めるわけではないが)。
 日本共産党の志位委員長は、「プーチン氏のようなリーダーが選ばれても、他国への侵略ができないようにするための条項が、憲法9条なのです」とツイッターで訴えて物議を醸した。今なお近隣諸国より自国の暴走を案じることには違和感を禁じ得ないが、維新の松井代表が「共産党はこれまで9条で他国から侵略されないと仰ってたのでは?」と疑問を呈されたように、志位さんはここに来てようやく真実を語られたと言うべきだろう。日本国憲法第9条が日本を守るのではない。占領期に制定され、だからといって無効とは言わないが、立法趣旨として日本の無力化を目指したものであったことは疑うべくもない。「力こそ正義」とする三国に囲まれ、75年の時を経てなお、この憲法が改められることがない現実に思いを致すべきだろう。
 ウクライナ危機の教訓は、「力こそ正義」という世界があることをも認め、それに対抗するために、先ずは自分の国は自分で守るという覚悟を持って弛まず努力すること(決して軍事大国を目指すのではなく、最低限の防衛力を備えるという意味では、何が最低限かが問題となる)と、次いで単独では非力であることも自覚し、「価値の体系」の連帯を飽くまで追求することだろう。西側が束になってかかれば、ロシアなどちっぽけなものだし、中国にだって十分に対抗し得るのである。
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