久しぶりに、思わずほ~っと唸って、つい身を乗り出して読みたくなるような記事に出会った(もとより膝の上のノートパソコンだからそんなことはしないが)。昨日の産経Webで見掛けた「零戦里帰り」なるプロジェクトである(詳細は、https://www.zero-sen.jp/)。
いろいろ経緯があったようだが、ともかく、戦後71年目にして初めて零戦(零式艦上戦闘機)が日本の空を舞うというのである。機体を所有するニュージーランド在住の日本人と防衛省などの調整が終わって、いよいよ今月27日、海上自衛隊鹿屋航空基地(鹿児島県鹿屋市)の上空を飛べるところまで漕ぎ着けたのだそうだ。
このプロジェクトの趣旨と目的について、先のウェブサイトには次のように記されている。
(引用)
零戦はその開発の目的と歴史には二度とあってはならない悲しい歴史を背負っていますが、当時、日本の物作りに関する技術力を世界に知らしめた「日本の物作りの原点」とも言える機体です。
日本は長年の景気低迷、少子高齢化、社会保障問題、地球温暖化、東日本大震災や多くの自然災害からの復興、原発問題、TPP加盟によるグローバル化などその環境は大きく様変わりしています。
日本は、ここで初心に帰り考え直す時期に来ていると考えています。
本機を里帰りさせることで、二次大戦世代の方から平成生まれの新生代の方まで多くの方が、「初心に帰り」、「何かを思う」、「明日を考える」きっかけになれることが最大の目的です。
(引用おわり)
産経Webで主催者は次のように語っている。
(引用)
「単に零戦が好きだからではない。先人が作り上げ、終戦後、二十数年で世界2位の経済大国にのぼりつめた世界最先端の技術をみてほしい。彼らの努力が、現在の日本の繁栄を築いたことを多くの日本人が気がつくきっかけにしたい」
(引用おわり)
確かに、中国と言えば、社会(中国共産党支配)が崩壊するとか経済が減速することを期待するかのように、7%を割る成長でも(仮に実態は3~5%でも)十分に高成長なのにマイナスのイメージのニュースばかりが取り上げられがちなように(足を引っ張る僻み根性からか、自虐趣味からか、悲劇願望か)、零戦と言えば、マイナスのイメージで遠ざけられるか、はたまた当時の技術の粋としての零戦に日本人の職人芸を見て賛美するような文脈で滔々と語られるか、そのいずれかの両極端が多い。産経Webの記事は多分に右寄りの叙情が漂うが、そんな政治的な左右の傾きを排して、純粋に科学技術史や産業史の中で「技術の粋」を冷静に振り返る機会があってもよい。零戦だけでなく、太平洋戦争中に開発された製品・技術や、何よりもこれらに携わった技術者は、当然のことながら戦後復興と高度経済成長を支えている(しかし戦前との連続性を否定したい左寄りの人を中心に、戦後日本は「奇跡」の復興を成し遂げたと思いたがっているような気がする)。
零戦は、ご存知の通り格闘性能と航続力という相反する要請を世界最高レベルで兼ね備えた名機だ(三菱重工と中島飛行機)。前者の軽量化のために新合金の超々ジュラルミンを開発し(住友金属)、馬力のあるエンジンを積んだし、後者のために燃料を多く積むと重くなるので、現代のロケットを彷彿とさせるような落下式増槽を開発した。プロペラ(回転数に応じて自動的にピッチが変わり常に最適回転を保つという恒速プロペラ)や脚(初めての引き込み式)にも、当時の最先端の技術が取り入れられている。戦後、そして今もなお、零戦に対して、格闘性能を高めるために防御を放棄して搭乗員の命を軽視したという批判が根強いが、実は当時の戦闘機の設計上の常識である「自らの搭載兵器による攻撃を防ぐものを備える」ことが20ミリ機関砲の搭載によって不可能になったため、中途半端な防護兵器を備えるよりは運動性能による回避を重視した結果に過ぎないらしい。実際に現代の戦闘機は全てこの方式を取っているという(伊勢雅臣氏による)。戦後、航空機の製造はもとより研究も禁止されたため、航空機開発に携わった技術者は、自動車産業や新幹線の開発に転身したのはよく知られる通りだ。中島飛行機は解体され、富士重工業(スバル)や日産自動車(東京工場が母体の富士精密工業を吸収)などに引き継がれている。
あの戦艦大和を建造した大型設備は戦後も健在で、46cm砲の製造に使われた工作機械は大型船のクランク軸を製造した。戦後10年余りで造船量世界一になったのは、その技術の蓄積と継承があったためだろう。全長15mの世界最大・最高性能の測距儀を作ったのは、国策で光学メーカーなどを結集した軍需産業・日本光学で、戦後、社名をニコンに変え、カメラ製造に乗り出した。そのほか、日本独自開発の酸素魚雷は、速度や射程距離や炸薬量(魚雷に搭載できる爆薬量)の点で諸外国の魚雷を圧倒した。実現しなかったが、太平洋を越えてアメリカ本土を爆撃して戻ってくるという、破格の航続距離2万キロに達する巨大爆撃機「Z飛行機」(後に「富嶽」)の製造計画が、中島飛行機を中心に進められていた。終戦までに9000個が製造され、その1割が実際にアメリカ本土に到達したと言われる風船爆弾もまた、高度維持装置などで高度な科学技術と創意工夫を要したらしい。搭載された5キロの焼夷弾4個と爆弾1個は、自動的に投下され、全てが投下されると気球は自動で爆発する構造だったらしい。
昨年11月、三菱重工系の三菱航空機が開発した国産初の小型ジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」の初飛行に成功したとき、中国共産党機関紙の人民日報系・人民網(電子版)が伝えた国営新華社通信の記事は、小見出しに「零戦製造で有名な三菱重工が手がける」とあったらしい(産経Web)。そして本文では「安倍晋三首相は武器輸出の原則を放棄し、日本の軍需産業の強化に乗り出した」とも書いたらしい(同)。相変わらずの反日の文脈で、日本の航空機市場への参入を警戒しているようだが、多くの日本人も違う文脈で、しかし同じように「零戦製造で有名な三菱重工が手がける」ことに思いを馳せたことだろう。右も左も離れところで、零戦には技術への想いが込められている。
いろいろ経緯があったようだが、ともかく、戦後71年目にして初めて零戦(零式艦上戦闘機)が日本の空を舞うというのである。機体を所有するニュージーランド在住の日本人と防衛省などの調整が終わって、いよいよ今月27日、海上自衛隊鹿屋航空基地(鹿児島県鹿屋市)の上空を飛べるところまで漕ぎ着けたのだそうだ。
このプロジェクトの趣旨と目的について、先のウェブサイトには次のように記されている。
(引用)
零戦はその開発の目的と歴史には二度とあってはならない悲しい歴史を背負っていますが、当時、日本の物作りに関する技術力を世界に知らしめた「日本の物作りの原点」とも言える機体です。
日本は長年の景気低迷、少子高齢化、社会保障問題、地球温暖化、東日本大震災や多くの自然災害からの復興、原発問題、TPP加盟によるグローバル化などその環境は大きく様変わりしています。
日本は、ここで初心に帰り考え直す時期に来ていると考えています。
本機を里帰りさせることで、二次大戦世代の方から平成生まれの新生代の方まで多くの方が、「初心に帰り」、「何かを思う」、「明日を考える」きっかけになれることが最大の目的です。
(引用おわり)
産経Webで主催者は次のように語っている。
(引用)
「単に零戦が好きだからではない。先人が作り上げ、終戦後、二十数年で世界2位の経済大国にのぼりつめた世界最先端の技術をみてほしい。彼らの努力が、現在の日本の繁栄を築いたことを多くの日本人が気がつくきっかけにしたい」
(引用おわり)
確かに、中国と言えば、社会(中国共産党支配)が崩壊するとか経済が減速することを期待するかのように、7%を割る成長でも(仮に実態は3~5%でも)十分に高成長なのにマイナスのイメージのニュースばかりが取り上げられがちなように(足を引っ張る僻み根性からか、自虐趣味からか、悲劇願望か)、零戦と言えば、マイナスのイメージで遠ざけられるか、はたまた当時の技術の粋としての零戦に日本人の職人芸を見て賛美するような文脈で滔々と語られるか、そのいずれかの両極端が多い。産経Webの記事は多分に右寄りの叙情が漂うが、そんな政治的な左右の傾きを排して、純粋に科学技術史や産業史の中で「技術の粋」を冷静に振り返る機会があってもよい。零戦だけでなく、太平洋戦争中に開発された製品・技術や、何よりもこれらに携わった技術者は、当然のことながら戦後復興と高度経済成長を支えている(しかし戦前との連続性を否定したい左寄りの人を中心に、戦後日本は「奇跡」の復興を成し遂げたと思いたがっているような気がする)。
零戦は、ご存知の通り格闘性能と航続力という相反する要請を世界最高レベルで兼ね備えた名機だ(三菱重工と中島飛行機)。前者の軽量化のために新合金の超々ジュラルミンを開発し(住友金属)、馬力のあるエンジンを積んだし、後者のために燃料を多く積むと重くなるので、現代のロケットを彷彿とさせるような落下式増槽を開発した。プロペラ(回転数に応じて自動的にピッチが変わり常に最適回転を保つという恒速プロペラ)や脚(初めての引き込み式)にも、当時の最先端の技術が取り入れられている。戦後、そして今もなお、零戦に対して、格闘性能を高めるために防御を放棄して搭乗員の命を軽視したという批判が根強いが、実は当時の戦闘機の設計上の常識である「自らの搭載兵器による攻撃を防ぐものを備える」ことが20ミリ機関砲の搭載によって不可能になったため、中途半端な防護兵器を備えるよりは運動性能による回避を重視した結果に過ぎないらしい。実際に現代の戦闘機は全てこの方式を取っているという(伊勢雅臣氏による)。戦後、航空機の製造はもとより研究も禁止されたため、航空機開発に携わった技術者は、自動車産業や新幹線の開発に転身したのはよく知られる通りだ。中島飛行機は解体され、富士重工業(スバル)や日産自動車(東京工場が母体の富士精密工業を吸収)などに引き継がれている。
あの戦艦大和を建造した大型設備は戦後も健在で、46cm砲の製造に使われた工作機械は大型船のクランク軸を製造した。戦後10年余りで造船量世界一になったのは、その技術の蓄積と継承があったためだろう。全長15mの世界最大・最高性能の測距儀を作ったのは、国策で光学メーカーなどを結集した軍需産業・日本光学で、戦後、社名をニコンに変え、カメラ製造に乗り出した。そのほか、日本独自開発の酸素魚雷は、速度や射程距離や炸薬量(魚雷に搭載できる爆薬量)の点で諸外国の魚雷を圧倒した。実現しなかったが、太平洋を越えてアメリカ本土を爆撃して戻ってくるという、破格の航続距離2万キロに達する巨大爆撃機「Z飛行機」(後に「富嶽」)の製造計画が、中島飛行機を中心に進められていた。終戦までに9000個が製造され、その1割が実際にアメリカ本土に到達したと言われる風船爆弾もまた、高度維持装置などで高度な科学技術と創意工夫を要したらしい。搭載された5キロの焼夷弾4個と爆弾1個は、自動的に投下され、全てが投下されると気球は自動で爆発する構造だったらしい。
昨年11月、三菱重工系の三菱航空機が開発した国産初の小型ジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」の初飛行に成功したとき、中国共産党機関紙の人民日報系・人民網(電子版)が伝えた国営新華社通信の記事は、小見出しに「零戦製造で有名な三菱重工が手がける」とあったらしい(産経Web)。そして本文では「安倍晋三首相は武器輸出の原則を放棄し、日本の軍需産業の強化に乗り出した」とも書いたらしい(同)。相変わらずの反日の文脈で、日本の航空機市場への参入を警戒しているようだが、多くの日本人も違う文脈で、しかし同じように「零戦製造で有名な三菱重工が手がける」ことに思いを馳せたことだろう。右も左も離れところで、零戦には技術への想いが込められている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます