会社帰りに、三鷹駅前のギャラリーで開催中のミュシャ展に立ち寄りました。アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha、ミュシャはフランス語の発音による表記であり、アメリカの画廊ではよくムカーと呼ばれていたような気がしますし、彼が生まれたチェコの言葉ではムハとなるそうです)は、言わずと知れた、アール・ヌーボーを代表するグラフィック・デザイナーで、私のお気に入りの作家の一人です。
世の中を見渡せば、私たちの身の回りは工業デザインで覆い尽くされています。その特徴は、シンプルで機能的で合理的。私たちはそんな無機質の空間に、花や絵を飾ったり、装飾品を置いて、束の間の憩いを求めるわけですが、その昔、暮らしの日用品そのものに装飾が生きていた時代がありました。19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパに沸き起こった、文字通り新しい芸術運動、それまでにない新しい様式であるアール・ヌーボーは、当時、広まりつつあった工業用品や近代建築の世界において、所謂モダンなものが普及する前の20~30年の間に、伝統的な芸術が存在感を示したものと言えます。それまでの芸術が実現され得なかった鋼やガラスのような新しい素材に、花や植物などの有機的なモチーフを生かし、自由曲線を取り入れた優雅な装飾が職人の手によって施されたのでした。
そうした様式に相応しく、この展示会でも、ミュシャの手になる書籍や雑誌の挿絵や、紙幣やステンドグラスのデザインや、煙草用巻紙(JOB社)やチョコレートやシャンペン(モエ・エ・シャンドン社)や自転車(ウェイバリー自転車)などのパッケージ・デザインやカレンダーのポスターが展示されています。勿論、ミュシャはれっきとした画家であり、堂々とした油絵の秀作も揃っていて、あらためて目を見張るわけですが、しかし何と言っても、彼の作品の中で目を引くのは、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターでした。Wikipediaの解説によると、「威厳に満ちた人物と、細部にわたる繊細な装飾からなるこの作品は、当時のパリにおいて大好評を博し、一夜にして彼のアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとした」のでした。
ミュシャの作品の女性像は、彼自身がスラブ民族でもあって、スラブ的な顔立ちに哀愁を帯びた表情が魅惑的です。そうした女性の衣装や装飾品にもスラブ文化が色濃く反映し、西洋と東洋との中間的な、あるいは西洋でも東洋でもない、独特のパステル調の色彩感覚と優美な幾何学的デザインが生かされています。晩年は祖国チェコに戻り、20年の歳月をかけてスラブ民族の歴史を描いた「スラブ叙事詩」や、チェコ人の愛国心を喚起する多くの作品群を手がけたように、彼には一貫してスラブの血が流れていました。1918年にハプスブルク家のオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立すると、財政難の新国家のために紙幣や切手や国章などのデザインを無償で請け負ったと言われます。それもあって1939年、ナチス・ドイツがプラハに入城した時、「その絵画は、国民の愛国心を刺激するもの」という理由でミュシャは逮捕され、その後、釈放されましたが、老齢の身に拘束はこたえたのでしょうか、ほどなくして亡くなりました。彼の作品はそうした彼の生きざまを映し、益々、妖しい魅力をたたえます。
宣伝するわけではありませんが、今回は、国内にあるミュシャの有力コレクションの一つ、堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館の「ドイ・コレクション」(カメラのドイの創業者によるもの)からも多く出品されており、見応えがあります。
今から10年ほど前、アメリカ滞在から帰国する記念に、ミュシャの作品を求めて、サンフランシスコのダウンタウンや郊外の港町サウサリートを散策しました。さすがに人気があるためか見つからず、代わりに購入したのは、上の写真のように、ミュシャとは似て非なる、むしろロートレックの雰囲気を漂わせるリトグラフでした。これはこれで世紀末の当時の熱狂と退廃が伝わる、私の宝物の一つです。
世の中を見渡せば、私たちの身の回りは工業デザインで覆い尽くされています。その特徴は、シンプルで機能的で合理的。私たちはそんな無機質の空間に、花や絵を飾ったり、装飾品を置いて、束の間の憩いを求めるわけですが、その昔、暮らしの日用品そのものに装飾が生きていた時代がありました。19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパに沸き起こった、文字通り新しい芸術運動、それまでにない新しい様式であるアール・ヌーボーは、当時、広まりつつあった工業用品や近代建築の世界において、所謂モダンなものが普及する前の20~30年の間に、伝統的な芸術が存在感を示したものと言えます。それまでの芸術が実現され得なかった鋼やガラスのような新しい素材に、花や植物などの有機的なモチーフを生かし、自由曲線を取り入れた優雅な装飾が職人の手によって施されたのでした。
そうした様式に相応しく、この展示会でも、ミュシャの手になる書籍や雑誌の挿絵や、紙幣やステンドグラスのデザインや、煙草用巻紙(JOB社)やチョコレートやシャンペン(モエ・エ・シャンドン社)や自転車(ウェイバリー自転車)などのパッケージ・デザインやカレンダーのポスターが展示されています。勿論、ミュシャはれっきとした画家であり、堂々とした油絵の秀作も揃っていて、あらためて目を見張るわけですが、しかし何と言っても、彼の作品の中で目を引くのは、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターでした。Wikipediaの解説によると、「威厳に満ちた人物と、細部にわたる繊細な装飾からなるこの作品は、当時のパリにおいて大好評を博し、一夜にして彼のアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとした」のでした。
ミュシャの作品の女性像は、彼自身がスラブ民族でもあって、スラブ的な顔立ちに哀愁を帯びた表情が魅惑的です。そうした女性の衣装や装飾品にもスラブ文化が色濃く反映し、西洋と東洋との中間的な、あるいは西洋でも東洋でもない、独特のパステル調の色彩感覚と優美な幾何学的デザインが生かされています。晩年は祖国チェコに戻り、20年の歳月をかけてスラブ民族の歴史を描いた「スラブ叙事詩」や、チェコ人の愛国心を喚起する多くの作品群を手がけたように、彼には一貫してスラブの血が流れていました。1918年にハプスブルク家のオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立すると、財政難の新国家のために紙幣や切手や国章などのデザインを無償で請け負ったと言われます。それもあって1939年、ナチス・ドイツがプラハに入城した時、「その絵画は、国民の愛国心を刺激するもの」という理由でミュシャは逮捕され、その後、釈放されましたが、老齢の身に拘束はこたえたのでしょうか、ほどなくして亡くなりました。彼の作品はそうした彼の生きざまを映し、益々、妖しい魅力をたたえます。
宣伝するわけではありませんが、今回は、国内にあるミュシャの有力コレクションの一つ、堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館の「ドイ・コレクション」(カメラのドイの創業者によるもの)からも多く出品されており、見応えがあります。
今から10年ほど前、アメリカ滞在から帰国する記念に、ミュシャの作品を求めて、サンフランシスコのダウンタウンや郊外の港町サウサリートを散策しました。さすがに人気があるためか見つからず、代わりに購入したのは、上の写真のように、ミュシャとは似て非なる、むしろロートレックの雰囲気を漂わせるリトグラフでした。これはこれで世紀末の当時の熱狂と退廃が伝わる、私の宝物の一つです。