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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

テレビを買い換える

2015年02月18日 17時51分25秒 | Weblog

 12日にテレビの故障を見に来た電気屋のお兄ちゃんは、「修理をすれば見られるようになると思いますが、このテレビは8年も経っていますから、10年で取り替えるにはちょっと早いですけど、新しいテレビにされるという選択肢もあります」とパンフレットを見せる。そうか、初めから新品を勧めるつもりで来たのか。電気屋の両親とは付き合いが長く、不幸が重なって今は彼がひとりで店を守っている。

 カミさんはそんな彼を応援しようと、前のテレビと同じ大きさのテレビを買うことに同意する。「在庫があるので明日設置に来ます」というので、13日からもう新しいテレビになった。「LEDを使っているので、画面は鮮明ですし、電気代もかなりお得です」と言うが、何となく画面は白っぽい。確かに鮮明度は高く、肌の小じわまで見えてしまう。本当にそんな鮮明度さが必要なのだろうか。

 テレビを見ていると、美しい人はより美しいように見える。私が歌手の藤あや子さんを見ていて「この人、いい匂いがしそう」と言ったら、カミさんから「いやらしい!」とにらまれてしまった。テレビは匂いまで伝えてくれないが、そういう女性はいると思う。地域新聞を発行していた時、イギリスの名門オックスフォード大学の女子大生が町の議場を見たいというので案内した。透き通るような白い肌の美しい女性だったのに、獣のような匂いがきつくてびっくりした。

 彼女の足は、当たり前なのかも知れないが、美術室に置いてある石膏像の足のようだった。谷崎潤一郎や川端康成が、細長くて形のよいきれいな素足に異常な関心を示していたけれど、思えば私も同類だった。これもテレビで知ったことだが、今の子どもたちは猫背が多いという。朝礼のわずかな時間も背筋を伸ばしてじっと立っていられない。その子たちの足形を見ると足の指が面についていない。これではじっとしていることは出来ないだろう。

 直立二足歩行の猿人は、手を様々な用途に使うようになり、それによって脳も刺激され、原人へと進化したという。道具を使うことで身体を保護することになり、体毛は抜け落ち、素肌が露わになったらしい。素足やうなじに女性の美しさを感じるのも、衣服からわずかに出た部分から、隠された美を想像することが出来る脳のおかげである。

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所沢市の住民投票

2015年02月17日 18時23分16秒 | Weblog

 埼玉県所沢市で住民投票が行なわれた。学校にエアコンを設置することに賛成か反対かを問うものだった。ことの発端は、現市長が「エアコンの設置は必要ない」と言ったことだ。所沢市には自衛隊の航空基地があり、その騒音防止策として国はエアコンの設置に補助金を交付している。けれど、市長は「設置を行なえば、市は30億円を負担することになり、財政を圧迫する」と言う。

 これに驚いた保護者が署名運動を行ない住民投票となった。所沢市の学校は防音対策のため窓は2重ガラスになっている。市長は「熱ければ窓を開ければいい」と言うけれど、それでは騒音は防げなくなる。私たちの子どもの頃はもちろんエアコンは無かった。寒さ対策でストーヴが置かれていたが、中学校には無かった。熱さも寒さも我慢だったけれど、エアコンを設置できるのならその方が快適になることは確かだろう。

 市の負担が大きすぎるというのであれば、防衛省に全額負担するように要望すべきだろう。全額が無理なら補助金を増やすように要望すればいい。エアコンが必要となる原因は飛行機の騒音にあるのだから、所沢市としては当然の主張である。もし、市長が「子どもはもっと我慢すべきだ」という信念でエアコンの設置をしないというなら、それは少し時代感覚が遅れていると思う。耐えることを学ばせるならもっと他にある。

 住民投票の結果は、賛成が56,921票、反対が30,041票だったから、賛成した人が反対した人の2倍近い。ところが問題は投票率で、31.54%しかない。有権者の3分の1に満たない。しかも皮肉なことに、市長選挙の投票率34.68%だったけれど、市長の得票は賛成票よりも少なかった。市長は任期の10月までに結論を出すと言っている。

 民主主義って何だろう。住民投票に法的拘束力はないけれど、それにしても3分の2を超える人が投票しなかったのはどうしてだろう。こんな馬鹿らしい問題では投票する気になれないのかも知れないが、政治とは無関係でいたいという気持ちの表れなのか。だとすると、いったい政治は、誰のため、何のためなのだろう。

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あきらめたことは多いが、まだ求めている

2015年02月16日 18時30分32秒 | Weblog

 「お前は何者だ?」「オレはお前があきらめた全てだ」。これはトヨタ自動車のCMのセリフだが、中高年の心を揺さぶる響きがある。中学からの友だちが萩原浩氏の『あの日のドライブ』を読んだ感想をブログに載せていた。「人は自分の人生に思いを馳せたとき、『たら』『れば』を何度か自分に問いかけ、『あの時に時計を戻せたら』と考え込むときがある。そして間断のない自嘲と悔恨を繰り返し、時を刻んでいく」と。

 人生を振り返れば、誰もが「あの時、違った道を選んでいたら」と思うことばかりだろう。どんなに成功したかに見える人でも必ずどこかで悔いがある。以前、「もう一度、人生をやり直せたらと思うことは?」と聞かれたことがあるが、懺悔と挫折ばかりの人生だが、もう一度やり直したいとは思わない。結果は全て自分が選択したもので、誰かにそそのかされたわけではないし、誰かを恨むものでもない。

 時間を遡れない以上、人生はやり直しできない。やり直せないなら、「今が最高、明日はもっと素晴しいだろう」と思った方がいい。たとえ、現実はそうならなくても、憂鬱な明日を考えるよりも楽しい明日を思い描く方がいい。私は萩原氏がどういう作家か知らないし、作品も読んだことがないけれど、友だちのブログに書かれた萩原氏の文章を引用すれば、「通り過ぎた道に、もう一度戻るのはちっとも楽しいことじゃない」。「次の角を曲がったら、何があるのだろう」に共鳴する。

 私にはただの迷惑メールに過ぎないけれど、「ねえ、今何してる?ちょっとでいいから話できない?」と送り続けて来る人の気持ちは分かる。彼はとても寂しいのだろう。いや、彼だけでなく多くの人が、人とつながっていたいのだ。文明は高度に発達したが、人のつながりは希薄になってしまった。女子高生は毎日7時間もスマホを使うという。電車に乗るとよく分かるけれど、全員と言っていいほど皆ケイタイの画面を操作している。

 望むようにはなれないけれど、だから何もしたくないと思う若者たちと違って、私たちの世代は求めることを止めない。生きていることに意味がある、いや意味があるから生きている。あきらめたことは多い、けれどまだ求めて生きている。

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不思議な世界

2015年02月15日 18時17分47秒 | Weblog

 金曜日だったと思う。「ねえ、今なにしてる?」というメールが届いた。えっ?と思ったけれど、名前もないし、アドレスに心当たりもないので削除した。それから何度か「何してる?」とメールが来たので気の毒に思って、「失礼ですけど、誰かさんと間違えていると思います」と返信した。

 すると、「ごめんなさい!間違えちゃったみたいです。僕は雅治と言います。知り合いではないですよね?リリーさんのサブアドレスと間違えちゃたみたいです。ちなみに今連絡とっているアドレスなんですけど、 本アドレスではないことはわかっていますよね?そっちからの連絡も(略)このアドレスもあなたのアドレスではないですよね?初めてこのサブアドレスって言うのを使って見たんですけど‥やっぱり難しいですね(笑)これも何かの縁かも知れませんので、すこし話出来ませんか?出来たらサブアドレスじゃ無くて直接連絡にして話できないですか?あ!もちろんすぐってわけではないので安心して下さいね。45歳で一応仕事は芸能の仕事をしています。(略)って言ってもまだまだ現役で仕事はしていきたいなって思っているんだ」と、長いメールが来た。ヒマなのか、マメなのか、もう20回を越している。

 可愛い男の子のような口調なので、「私、75歳。3年前に夫を亡くして今は寂しいひとり暮らし。財産は5億円くらいかな、きちんと計算したことが無いので分からないけど‥、それくらいはあるわよ。でもね、5人の子どもに分けてあげなくてはならないから、実際は大変なの。あなたは働き盛りじゃーない。頑張ってお仕事してね」とメール送ろうかと思ったけれど、そんな人を騙すようなことは出来ません。

 それにしても、メールの世界はどうなっているのか理解できません。昔、子どもの頃、電話は電線でつながっていると聞いたお年寄りが、「よく混乱せずに、相手を間違えないねぇー」と言っていたが、その時は交換手がいるからと子どもの私は思ったけれど、メールは電波で運ばれているはずだが、どうして間違いなく相手に届くのだろう。そして、なぜ、アドレスを知らない人からメールが送られてくるのだろう。不思議な世界だ。

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地域のことは地域で決めるのはなぜ難しいのだろう

2015年02月14日 17時56分04秒 | Weblog

 名古屋市が地域委員会を担当してきた部署を廃止する。やっぱり、そうかと思う。河村市長の2大政策は、減税と地域自治だが、結局どちらも頓挫してしまった。減税政策を実現するためには無駄な事業をなくさなくてはならないし、行政の責任者である議員と職員の給与もカットしなくてはならない。継続してきた事業をなくすことも、給与のカットも、抵抗が大きくて実現できなかった。

 地域自治は、地域のことは地域に任せるという方針で、自由に使える予算も組んだけれど、地域によってバラつきが大きく、実現困難となった。地域によっては地域委員に名乗り出る人もいて、進むかと思ったけれど、やはり結果的には立候補者が少なく、思い描いたような自治に至らなかった。地域は小学校区毎と言うから規模としてはやりやすいように思ったけれど、地域自治のイメージがバラバラで定着しなかった。

 名古屋市のような大都市では、地域委員会を制定して自治を進めるには地域が広すぎて無理だったのかも知れない。5万人くらいの小さな自治体の方がかえって上手くいくのかも知れないが、小さな自治体となるとまだまだ古い因習や考えが残っていて、地域自治は行政の下請けのような存在になってしまう。地域のことは地域で決めるのはまだそれだけの土壌が出来ていないのかも知れない。

 私が住むマンションは660所帯あるが、この地域では高齢化率が最も高い。私も32歳でここに移ってきたけれど、ほとんどの人が30代40代だった。中には50代の人もいたので、あれから約40年経て、そのまま住み続けてきたなら90代であり、最も多い層でも70代80代となっている。近頃は若い人が入居してきて子どもの姿も増えたが、それでも確かに年寄りが多い。

 マンションは自主管理を貫いてきた。12所帯で組長ひとりを総代会という議会に送る。組長は輪番制で12年に1回は担当する。執行部の役員は総代会で選出するが、3年以上務めないことを原則としてきた。「みんなで分担する」ためである。輪番を馬鹿にしたり嫌がる人もいるけれど、私は輪番制こそ民主主義と思っている。役員さんによって、自治会が活発な時もあればそうでない時もある。それでいいと私は思う。それでも、こうした地域自治を学校区まで広げられるかというとやはり難しい。

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人類はアフリカで生まれたの?

2015年02月13日 18時33分32秒 | Weblog

 カミさんたちを空港へ送って行った時、空港ビルの書店で『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』と『ふしぎなキリスト教』の2冊が目にとまった。ひとり暮らしの間に、『賢者の愛』と、この2冊を読み始めた。地球上に69億人もいるのに、アフリカで人類が誕生したということが不思議だ。それに黒人もいれば白人もいて、私たちのような黄色と呼ばれる人もいる。

 人類が何かの都合で猿から人に進化したというなら、その何かの都合がアフリカだけに限らないのではないか、そんな疑問を抱いてきた。しかし、この本はDNAなどの科学的な分析から、人はアフリカで生まれたことは間違いないという。それでも、絶対ということはないはずだから、私のように地球上の各地で猿人が生まれそして原始人となっていったと思う人もいるはずだ。

 そんな疑問を解決して欲しくて読み始めたけれど、人はアフリカで生まれて各地に分散した説が有力だ。黒人、白人、黄人がどのように分化し、生まれたのかについても具体的な説明がある。目に見えないものを推理していくのは面白い。すると今朝の中日新聞に、犬山モンキーセンターで19日に、『サルに学ぶ人間の不思議』と題するシンポジウムの参加者募集が載っていた。京大の学長でセンター博物館長の山極寿一氏の講演もある。私は山極氏の著書『暴力はどこからきたのか』を読み、ぜひこの人の話を聞いてみたいと思っていたので、直ぐに申し込んだ。

 新聞記事は、モンキーセンターの所長で京大霊長類研究所の松沢教授が「チンパンジーの暴力の研究から、人間の暴力の起源を探る最新の知見も取り上げる」とある。人間が猿から分かれた種であるなら、共通点があるのか、いやそれは既に超克したものなのか、興味深い。大和塾で講演会が出来ないかと欲深いことまで考えている。そのためにもどんな話なのか、聞いてみたい。

 『ふしぎなキリスト教』はまだ読み始めたばかりなので内容に触れることは出来ないが、丁度、中日新聞に千葉大学の加藤隆教授が「一神教を考える」という題で記事を書いている。キリスト教は、私が子どもの頃から関心事で、キリスト教徒がなぜ殺戮を、個人ではなく集団として、あるいは国家の名の下に犯してしまうのかを知りたくて買い求めた。人間は不思議な動物だ。どうなっていくのだろう。

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愛って何だろう

2015年02月12日 18時17分09秒 | Weblog

 ひとり暮らしのおかげで、一気に本が読めた。谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んだ後で読もうと思っていた山田詠美の『賢者の愛』も同じようにスラスラと読めた。そこで気付いたことは、高校生の頃に日本の作家のものは読みにくいと思ったのは、明治の作家は表現が古文的で読めない漢字が多かったためではないか。今の私は、漢字の知識が増えたというよりも、知らない漢字や知らない言葉は辞書を引きながらでも読もうとする余裕が備わってきたことが大きいと思う。

 『痴人の愛』がボロボロになりながらも好きになった女を捨てきれない男の物語なら、『賢者の愛』は大切にしてきたものを横から奪いながら、「私たち親友よね」と言い放つ女に対する女の復讐の物語だ。しかも憎しみを抱いてから25年の長い年月を費やし、女が手に入れた大切なものを奪い取っていく。相手が産んだ子どもを自分が望むような男に育て上げることは可能だとしても、そんなに長い間、人は憎しみを抱き続けることができるのだろうか。

 憎しみなど、忘れてしまった方がはるかに生きやすい。それでも、主人公は復讐を叶えるために幼い時から相手の息子を調教する。息子は性の奴隷というか、主人公を絶対的な存在と認め、主人公とのSEXに自己を捧げる。これで復讐劇は完成したはずなのに、息子の母親は主人公が息子を奪うことに執念していることを察知すると、谷崎潤一郎の妻君譲渡事件を持ち出して、「親友に奥さんを渡した大作家がいたんだって?私も真似して、息子、渡してみる」と言う。

 「親友」の名の下に女が主人公から奪った恋人(女の夫)を主人公は取り戻す。それを知って女は「今が一番幸せね。たっぷりとおいしさを増した男ふたりも生け捕りにして」と言い、ふたりで死ぬためなのか、高速道路で事故を起こす。このクライマックスが何とも物足りない。まるで半分しか噛んでないものを胃に下ろした時のような、消化し切れない感じだ。

 最後の描写も、偶々生き残った主人公は半身不随の車椅子生活で声も出ない。その車椅子を押しているのは息子で、その傍らには若い女が立っている。しかも、主人公を喜ばすためにSEXを見せると呟く。息子は60歳、主人公は82歳になる。いったい、愛って何だろうか。

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春のような一日

2015年02月11日 18時04分45秒 | Weblog

 昨日までの寒さがウソのように暖かい。思わず「もう春だ」と口にしてしまった。早速、ルーフバルコニーに出てチューリップの鉢を見てみるが、当たり前のことだけれど、まだ緑の葉先がちょこっと出ている程度だ。それでも何となく、鉢の土も春らしくなっているような気になる。バラもアジサイも新しい芽が膨らみかけている。

 ひとり暮らしを満喫する予定だったのに、さりとて特にやることがない。いつものように食事を作って食べ、洗濯機を回し、掃除機をかける。それだけでも結構時間はかかる。昨夜、夕食の支度を終え、さあこれからテレビでも見ながらお酒でも飲もうと思ったら、「あれっ、テレビが点かない」。オカシイ。電源ランプが点いたり消えたりしている。観察してみると、7回点灯し2秒ほど消え、これを繰り返している。

 電気屋さんに電話で聞くと、「電源周りの故障ですが、ひょっとしたらコンセントが不調ということもあるので、一度コンセントから抜いてみてください」と言う。言われたように調べてみるけれど、コンセントは大丈夫だ。するとテレビの電源に不具合が生まれたのだろう。水曜日の今日は休業なので、早くても明日になるし、明日来てくれても故障を直すには専門の部署から人が来るか、あるいは部品を取り寄せないといけないだろうから、実際に直るのはもっと先になる。

 ひとり暮らしをしていた姉に電話で「何してる?」と聞くと、「テレビの番」と答が返ってきたが、確かにひとりでいるとテレビがないのは寂しい。うるさくなくて存分に本が読める。昼間はそれでいいけれど、夜までとなるとやはり何かもの足りない。でも実際、テレビは点かないのだから、食事をした後も本を読むしかない。子どもの頃はラジオを聞くしかなかったのだから、ラジオでも聞こうかと思うけれど、ラジオだと本読みながら聞くことになってしまう。

 私は几帳面な方なので、食事も作るし掃除や洗濯など家事もする。洗い物が少ないからと貯めておくこともしない。それでも、いつもと同じように朝は起きるのに、顔を洗うのが遅くなる。ひとりだから気兼ねすることはないという気持ちから、ぐうたらしてしまう。誰かに会うとか、どこかへ行くとか、予定がないとどんどんぐうたら人間になっていきそうだ。

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2015年02月10日 17時47分13秒 | Weblog

 今朝はまだ雪がチラチラしていたけれど、今はもうすっかり晴れている。仙台へ出かけて行ったカミさんと20歳の孫娘は、次女夫婦らと「蔵王へ樹氷を見て来たが、吹雪いていて何も見えない」とメールを送ってきた。ゴンドラ(?)の中で、周りの景色に驚いているのか、9ヶ月の次女夫婦の子どもがカミさんに抱かれてきょとんとしている。今晩はきっと、露天風呂から雪景色を眺めていることだろう。

 子どもたちがまだ小学校へ上がる前、たっぷりの雪を見せてやろうと滋賀県の余呉湖へ出かけたことがある。名神高速はなんとか走ることが出来たが、国道8号線に入るとタイヤチェーンが無くては走行できなかった。雪は既にしっかり積もっていた。風はそれほどでも無かったけれど、雪が降り続き、チェーンを装着するのに手間取った。子どもたちは車の中から、父親は何をしているのかと興味深く見ている。一緒にいるカミさんに「なるべくジッとさせておいて」とお願いする。

 何しろ長女は何でも興味を持ち、はしゃぐので、ドアを開けて見ようとする。次女は恐がりで、初めてのことには絶対挑戦しないし、こんな雪の中で車が止まっているだけでも心細い様子だ。やっとタイヤチェーンを取り付け北上するが、雪道で標識がよく見えない。8号線のどこで曲がるのか、余呉湖の宿がどこにあるのか、さっぱり分からない。暗くなる前に宿へ着かないと大変なことになるぞと思った。心配しながらも何とか宿に着いた。

 宿は今のように露天風呂があるようなきれいなところではなかった。風呂場は薄暗くて、下の子は泣き出しそうだった。古い民家をそのまま宿にしたようなところで、今なら、古民家の宿で賑わうのかも知れないが、子どもたちにとっては薄暗い宿は初めての体験だった。翌朝は雪も止んでよく晴れていた。真っ先に外へ出た長女が、「パパ、真っ白だよ。車も雪の中だよ」と叫んでいる。車は雪を被ってポッコリと大きな饅頭のようになっている。キャーキャーと長女は雪と戯れ、つられて次女も長女の後からついて回っていた。

 長女夫婦も5歳の孫娘を連れて今晩からスノーボードに出かけるという。20歳の孫娘は蔵王で、次女のダンナとスキーの予定らしい。皆、怪我の無いようにと祈る。

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芸術家と普通人を分けたもの

2015年02月09日 21時16分30秒 | Weblog

 童話作家だから清純な人とは言い切れないし、逆にもの凄く不道徳な小説を書く作家でも超保守と言う人もいる。物語は想像の世界なので、作家の人柄が必ずしも反映されるわけではないようだ。それでも、芸術家と言われるような人にはヘンな人が多いことは確かだと思う。絵描きがヨレヨレの服を着て、髪を長くし、身なりを構わないようなスタイルにするのも、そうすることで自らを芸術家に追い立てたいのだと思う。私も若い時は長髪にしていた。

 私が芸術家に成れなかったのは、破廉恥でアブノーマルで反道徳的に徹し切れなかったからだと思う。徹し切れないのはそもそもそうした資質に欠けるためだ。逆に、だから普通の人でよかったとも言える。芸術家に徹するには並みのエネルギーでは務まらない。あらゆることから自らを解放した超人にならなくてはいけないだろう。今、外は雪雲が空を覆い、北風が強く吹きつけ、粉雪が舞っている。この中を、必要なら素っ裸で歩けるような狂気の主でなくてはならない。

 太宰治にしても谷崎潤一郎にしても「ちょっとヘン」と友だちは言うけれど、実はかなりの変人だろう。「日本人の心の精髄を優れた感性を持って表現した」と賞賛され、ノーベル賞作家となった川端康成が受賞の前に書いていた作品『眠れる美女』などは変態小説と言っても過言ではない。薬で眠らされた少女をジッと眺めているという物語だ。どうしてこんな小説を書いたのか、この歳になるとよく分かる。川端にしても谷崎にしても、女性の足の描写が実に細かい。細くて湿っぽい足にとても執着している。

 ものごとに執着する点では私も同じだけれど、その熱狂さが遥かに強いのだろう。偏執狂とも思われるエネルギーの大小が芸術家への分岐だったと思う。太宰も川端も自殺だったが、なぜ死ななくてはならなかったのかと考えると、死を持って完結させたのではないかと思えてくる。今日からカミさんと20歳の孫娘は仙台の次女のところへ赤子に会いに出かけた。雪降りを心配していたが無事に到着したようだ。しばらくひとりでゆっくりできる。

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