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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

芸術家と普通人を分けたもの

2015年02月09日 21時16分30秒 | Weblog

 童話作家だから清純な人とは言い切れないし、逆にもの凄く不道徳な小説を書く作家でも超保守と言う人もいる。物語は想像の世界なので、作家の人柄が必ずしも反映されるわけではないようだ。それでも、芸術家と言われるような人にはヘンな人が多いことは確かだと思う。絵描きがヨレヨレの服を着て、髪を長くし、身なりを構わないようなスタイルにするのも、そうすることで自らを芸術家に追い立てたいのだと思う。私も若い時は長髪にしていた。

 私が芸術家に成れなかったのは、破廉恥でアブノーマルで反道徳的に徹し切れなかったからだと思う。徹し切れないのはそもそもそうした資質に欠けるためだ。逆に、だから普通の人でよかったとも言える。芸術家に徹するには並みのエネルギーでは務まらない。あらゆることから自らを解放した超人にならなくてはいけないだろう。今、外は雪雲が空を覆い、北風が強く吹きつけ、粉雪が舞っている。この中を、必要なら素っ裸で歩けるような狂気の主でなくてはならない。

 太宰治にしても谷崎潤一郎にしても「ちょっとヘン」と友だちは言うけれど、実はかなりの変人だろう。「日本人の心の精髄を優れた感性を持って表現した」と賞賛され、ノーベル賞作家となった川端康成が受賞の前に書いていた作品『眠れる美女』などは変態小説と言っても過言ではない。薬で眠らされた少女をジッと眺めているという物語だ。どうしてこんな小説を書いたのか、この歳になるとよく分かる。川端にしても谷崎にしても、女性の足の描写が実に細かい。細くて湿っぽい足にとても執着している。

 ものごとに執着する点では私も同じだけれど、その熱狂さが遥かに強いのだろう。偏執狂とも思われるエネルギーの大小が芸術家への分岐だったと思う。太宰も川端も自殺だったが、なぜ死ななくてはならなかったのかと考えると、死を持って完結させたのではないかと思えてくる。今日からカミさんと20歳の孫娘は仙台の次女のところへ赤子に会いに出かけた。雪降りを心配していたが無事に到着したようだ。しばらくひとりでゆっくりできる。

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