人の心には魔物が潜んでいる。殺してみたかったとか、万引きのスペシャリストとネットに投稿するとか、強姦に襲われ血まみれで助けを求めドアを叩いているのに、かかわりたくなくて家に入れないとか、お金を誤魔化すとか、数え上げれば切りがない。人の心はいつも正しくて、いつも優しくて、絶対に間違いをしない、と誰も信じていないだろう。人の心は誰もが、善と悪とのせめぎあいだから。
名古屋と春日井の小学校6年の授業で、「イスラム国」の残忍な行為を子どもに見せたことが問題になっている。どちらの市教育委員会も直ちに謝罪し、「二度とこのようなことがないよう、校長、教職員への指導を徹底する」として、全学校に注意を喚起する文書を送った。「残虐な画像を見せたのは不適切」と言うが、どうしてなのだろう。「イスラム国」の行為は現実社会の中で行われていることで、見せてはいけないと私は思わない。
人は「大義」を振りかざすとどんな非道なことも行なえてしまう。赤穂浪士の討ち入りも桜田門の変もテロ行為なのに、「大義」を認めると拍手してしまう。テロで人を殺すことも、戦争で人を殺すことも、何も変わらないのに、「大義」が人殺しを美化してしまう。賛同することで悪に加担しているのに、同じと思っていないのだ。人の心の中に思いやりや優しさは存在しないのに、それでも自分は手を染めていないと信じている。
広島の原爆資料館を久しぶりに訪れて、高校の修学旅行で見た時と違う印象に戸惑った。資料館の職員に尋ねると、「子どもたちがショックを受けるので、むごたらしいものは展示しないようにしている」と言う。原爆が落とされ、その結果たくさんの人が死んだのに、その惨状を見せずにショックの無いような展示にして本当にいいのかと思う。心の魔物と向き合わなければ、せめぎあいは起きない。
授業を行なった先生は「人の命の大切さに目を向けて欲しかった」のだから、謝ったりしない方がよかった。母親のひとりが「事前に保護者に相談してくれれば」と言うが、授業についていちいち保護者に相談しなければならないと私は思わない。母親こそ自分の意見を持ち、子どもと向き合うべきだろう。何が正しくて何が悪いのか、せめぎあって判断していくのが人である。心の中でも人の社会でも、どちらが優勢か、せめぎあいをしない時が一番危ない。