「会うは別れの初めとか‥」とさるぼぼさんからコメントをいただいた。演歌などにもありそうな言葉だが、出典は仏教の経典である。仏教では人間とは何かを追及し“悟る”ことが求められた。出会いは必ず別れをもたらすというひとつの真理で、「会者定離」という。仏教に由来する諺なのだが英語にもWe never meet without a parting(別れのない出会いはない)があるから、人間は昔から洋の東西を問わず、そんな風に考えてきたのだろう。
歌の世界だと別れのことばかりが強調されるし、実際にも親しい友だちが引っ越してしまうとか、肉親が亡くなるとか、あんなに激しく求め合った恋人が去っていくとか、人は出会ったことの喜びよりも別れの辛さや悲しさの方が脳に焼き付いてしまうようだ。仏教でいう「無常」が、いつの間にか「無情」になり、自分を捨てた人を恨んだり挙句に罵ったりするけれど、死は定めであり、恋人が去るのは双方にそれぞれ原因があるはずだ。
中学からの友だちは17歳下の女性と15年間も「友だち以上恋人未満」だった。ところが彼は健康診断で肺に影があると診断されると、彼女との別れを決意する。潔いというか潔癖症というか、とても私には真似が出来ない。おそらく、一番よい時に別れた方がいい、自分が病に犯されていく姿を見せたくない、そんな風に考えたのだろう。作詞家の山口洋子さんのエッセイ『帰り道を忘れた男たち』を読んで、そこから自分の別れを振り返っている。
「恋は始まりや進行形の途中ではなく別離の瞬間に、一番その恋の本性をあらわす。死ぬほど素敵だったあのひとが、つまらない男になり下がり、たとえようもなく優しかった彼女が、実は冷酷で身勝手な女だと思い知らされてしまうのも、恋の終わりの瞬間である。どんな芝居でも、エピローグやクライマックスではなく、幕が下りた拍手の数で値打ちが決まるように、恋もまた、エンディングの幕が引かれたその直後の余韻、そこで恋の余韻がきまる」と長々と引用した。
そして、「私の場合はルビコン河を渡ることなく、恋の余韻だけを楽しんだ方だ。相手にすれば、別れの瞬間、私はきっとつまらない男になり下がっていたのかも知れない」と告白する。キスしたいとか抱きしめたいとか思いながら実行しなかった。でも、相手からするとつまらない男だったかも知れないと未練が残る。「会者定離」は、別れのことではなく、出会いの喜びに目を向けなさいという意味と私は受け止めている。