蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

mustではなくbest でもなく、better

2020-02-14 | わたし
こうでなければならない、と決め込むと、しんどい。
そうならなかった時、苦しい。

こうだったらいいかも、ぐらいで良い。
第2希望か、第3希望あたりで手を打つ。
余裕というか、選択肢を広げる。
脇目も振らず必死の人には、見えるのは目の前のものだけ。
だが、ここという時に集中するのは大事だ。

集中しても、目標に達しないことはよくある。
挫折する。
ボキッと折れる。
折れても再生出来るならよいが、それでおしまい、二度と復活ならず、傷は一生癒えない。

しかし、第一希望を目指して頑張ったことはどこかで活きるはず。
むしろ第一希望ばかりが実現すると、かえって恐いかも知れない。

いいんじゃない?
第2希望でも、第3希望でも。

ちなみに、子供たち。
全員、第1希望の学校には受からず、第2希望の志望校へ。
就職も第2希望。
結婚相手も第2希望。 

ついでに、わたし。
学校は第1希望。最後は志望校をうんと下げる。
結婚は、第3希望。
(望んだ相手は別の人だったけど、結果的には、条件的にわたしには1番バランスが取れていた相手になった)

やはり目標を定めるべき。
だらだら、成り行き任せでは、なりたい自分から遠ざかる。

わたしは自然体で無理はしないけれど、自分に対する理想はある。
理想に程遠いということは決してない。
第1希望ではないだけだ。
それなりに努力しないと、棚ボタでは知恵がなさすぎる。
非力は非力なりに、自分を活かせる方法を考える。
その思考法は、今ある自分のメリットを活かすこと。
イバラの道をわざわざ選ばない。
1番近道はどれかを考える。
結果的に回り道になってもいい。
とりあえず、なりたい自分になる方法を探る。
怠けに怠けた、ゆるゆるのわたしではあるが、その状態になれるように自分なりに努力した。
笑われるだろうけれど。
いいの。いいの。

実際、わたしを知る人は、わたしが努力していると言うと、どこが?と、あきれて笑うんだけど、失礼しちゃう。
あなた頑張っているね、と認めてくれる人などとんでもなく、手を抜いているのはお見通しなのか?

まあ、よろしい。
あえて、口に泡を飛ばして反論、力説する気はさらさらない。
そんなことをしたら、「あなたならもっと出来る。もっと頑張るべき!bestを尽くしてない」なんて、お説教されかねない。
これを「やぶ蛇」という。
頑張っている人をへんに刺激してはいけない。
はい、皆さま、ご苦労様です。

なんと言われようが、全然、気にしていない。
なんの努力もしていないように見えるなんて、ある意味、素敵じゃないかと思ったり。
暑苦しいのは、好まないので。

今日の、ブログ、つまらない。
自己認識アリです。
明日こそ、ベストなものを!
今日は第2.第3でもなく、「最も悪い」よりは、少しマシ、後ろから2番目ぐらいかと。
まあそんな日もあります。
ほとんどが、そんな日ですが。


リタイア後の人生プラン〜趣味編

2020-02-13 | 趣味
く同好趣味の男性で、定年になったばかりの人、Aさんと、今年いっぱいで定年を迎える人、Bさんがいる。

社交ダンスは高齢化が進み、60代でも若い部類に入る。
Aさんは、365日、毎日自由なんで、いつでも声をかけてくれたら出向いてダンスします、とのこと。
リタイア1年生の今年、年金で暮らしていけるか様子を見て、経済的に無理そうなら職探しするらしい。

職探しって、そう簡単に見つかるんですか?と聞いたところ、ハローワークで見つけられるし、見つかるまでは失業保険が半年ほどあるという。

楽観的な、その大雑把な計画。
どこも願いが叶わないとすると、ダンスパーティ会場で、来場するお一人様女性を相手に踊るアテンダントとしてパーティ主催者に雇ってもらおうかと、希望を抱かれている。
その一番下の希望さえ、そうそう簡単には行かないと、私は悲観的な見通しを立てている。

もう一人のBさんは、もっとスゴイ。
ダンス教室にスタッフとして雇ってもらう、、、
特定の女性に請われる形で、ダンスアテンダントをチャーターとして雇われる、、、
豪華客船のダンスアテンダントとして雇われる、、、
、、、などなど、夢を描かれている。
なぜ、夢かというと、、、

彼らのダンス技術。
プロでもなかなか教室運営や雇用は難しいのに、素人、ましてや競技にも出ていない、個人レッスンも受けたことがほとんどないレベルで、大きく出たものである。
確かに、下手なわけではなく、あまり踊れない女性をそこそこ踊らせることは出来る。
が、とりあえず及第点といったところか。

彼らは、日頃、お年寄りが多いサークルに所属して、体育館などで練習している。
講師であるプロに生徒が支払うレッスン料はわずかで、行政から生涯学習支援の予算が割り当てられている。
サークル歴は長くても、仲良しお遊戯会みたいな和気藹々としたもので、通常、団体レッスンは、足型だけを覚えるもの。
社交ダンスは、上級になるには個人レッスンを受けなければ困難だと言われる。
個人レッスンは、1時間1万円ぐらいで、庶民には、ばか高い。
1週間に1回でも月4万円。他にも諸費用もいるだろうし、家庭を抱えるサラリーマンには重いかも知れない。
女性は、ばんばん使う人は使う。(男性も使える人は使う)
月10万円は下らない人もいる。
先生と一流ホテルでデモにでも出ようものなら1回50万や100万はかかる?
1年に2回出て、10年、20年続けるとマンションぐらいは買えそうだ。
「趣味にはお金がかかるものなのよ」とさりげなく仰るマダム。
しかし、わたしはどうもその臭い、好きになれない。
言葉の奥には、特権意識がプンプン。

まあそれは人それぞれ。各自の道として、、、
それとは別に、スポーツ部門として競技ダンスがある。
大学生の頃から学連でやっている人も少なくないが、違いは歴然である。
50歳を過ぎてから始める人もいるが、ペアレッスン費や初期投資の費用は見ておかなければならない。

AさんBさん、二人とも、見た目を競う競技には興味がないそうだ。

ちなみに、見た目を競う競技技術を身につけるには、陽だまりサークルでは無理。
競技は個人レッスン2回分より安い年間参加費さえ払えば、誰もが1年間出場できるから、万年ビリでもよいなら我流でもオッケーだが。

サークル内では彼らは若手で、踊れる部類なので、サークル内だけでのポジションで自らを評価している。
サークル以外では、厳しい。
今更、せっかく得た居心地良い居場所を捨ててまで、時間もお金もかかる、新しい分野には挑戦しないと思われる。

別にそれでもいい。
夢は夢であり、ダメだった、となっても、それはそれ。
70歳からいきなり素人が大統領選には出られない。
自治会の会長なら大歓迎だろうけれど。

自分の身の丈に応じた夢でなくてもいいと思う。
実現は無理っぽいと思われるが、バラ色の理想の夢を描くのは楽しい。

リタイア後は、毎日、現役で働いていた頃と違い、毎日がサンデーとなる。
土日祝日だけが休みだったのが、毎日休みになる。
それからまた考えてもいい。
わたしの予想では、ダンパ通いになるんだろうと思っている。
足りない資金は、出費を抑えて、交通費や食費を削り、パーティも高額なものは見送り、年金内生活にシフトしていくことだろう。
次第に仕事をしない自分の生活に慣れてくると思われる。

家族も、大黒柱が年金になれば、現役時代の水準は確保できないことぐらいはわかるだろう。
ちょうどその頃、親は益々さらに老いてきて、サポート、介護問題が発生してくる。
忙しくなるはずだ。
現役時代に介護が重なり、遠距離介護しながら勤務していた人もいたが、AさんとBさんは、そうでなくて良かったと思う。

て、人のリタイア生活をあれこれ言っても余計なお世話である。

わたしはわたしで、好き勝手な自然体生活を満喫して、お気楽なものだ。



本格的に眠くなってきた

2020-02-12 | 無題
ブログ村エッセイの新星、面白い大学生やわぁ〜。
朝から笑わせていただきました。
広告業界へ、ヘッドハンティングしたい気分です。

で、話は変わり、、、
さて、気の利いた話は、そういうのが得意な人にお任せして、、、

芸術と、わたし。
これ、離婚した夫婦みたいなもので、元の鞘には収まらない。
でも、くっ付いたり離れたり、身近なところをウロウロ。
わたしは、芸術は、鑑賞する派で、決して作る派ではないので、非常にお気楽だ。
好きだの嫌いだの、感想を述べていればよいのだから。
ケーキが芸術的であるなら、感激してすぐには食べられない。
存分に眺めたり、写真撮ったり、ひとしきりキャーキャー騒いで、あちこちに広めたりして、でも最後に食べるんだろうなあと。
芸術を食べる。ぱくり。

では芸術的な味のケーキは?
食べたから味がわかるわけで、食べないで味を芸術認定するわけにはいかない。
ちなみに、わたしは、ケーキでマズイものを食べたことがないので、まあ、だいたい大まかには芸術的であろうが、宗教的であろうが、ケーキは甘くて美味しいと想像する。
国によっては、甘さが強烈なところもあるが、気候や風土も関係しているかも知れない。

もう一題、ブログ村エッセイ、敬愛ブログからお題を頂戴する。
「人に人生のアドバイスする人」
こんな、鬱陶しいものはない。
宗教家か?
はたまた年かさ行かない子供の親?保護者?
宗教家であっても押し付けがましいのは、暑苦しく圧迫される。
だいたい、親はともかく、人の人生に何の権利があって口を挟むのか、意味不明である。
藁にもすがる気持ちの人に対して、人助けならいざ知らず。

ずいぶん前に、仕事の後輩とのやり取りを思い出した。
スタッフで子育てに深刻に悩むママがいた。
そのママの話を、子育ても結婚も児童学も、なんにも経験も知識もない後輩女子Aさんが、しゃーしゃーと、悩めるママにアドバイスしていた。

「そんな時は、これこれこうしたらいいんですよ」

そんなこと、誰でも考えられる。
思うように行かないから苦労し、悩むわけだ。
彼女の浅はかさには、驚いた。
他の事柄も、一事が万事だった。
世の中、そういう人も普通に存在する。

それはそれとして、、、
芸術も解らないが、芸術論はもっとわからない。
わたしから芸術を遠ざけるのは、全く理解できない芸術論の存在だ。

なんの知識も先入観もなく、絵画などを観て楽しんではいけないのか。
自分流の楽しみ方。
難しい解説は必要なのか。
解説を理解するほうが、より理解が深まるとは思うが。
わたしには、横から口を出す、うるさい母親のように感じる。
きっと、ひねくれているのだろう。
素直な生徒ではない。
天邪鬼。

そのくせ、芸術的なものは大好き。
何?これ?
似非(えせ)芸術愛好家?

解らないものは、我流で理解するのが、わたし流である。
そして、わたしが最近一番好きなのは、、、「個性は比較できない」。
個性は唯一無二なので。
しかし、時代の流れ、時流というものがある。
似たような個性の大まかな集団。
個性に似たようなものがあったら、あるいは、同じ個性があったら、それは個性なのか?

と、話がまとまる方向とは逆展開になっている。
眠くなってきた。
道理で、何を言いたいのか、自分でもよくわからないはずだ。

長々と時間を使う贅沢

2020-02-10 | ブログ
わたしは、どちらかというと、嫌なことを嫌だと言えない性格。
ずいぶん前に、そんなタイトルの、精神科医が書いた新書を買って読んだことがある。
自分に当てはまるところがたくさんあったのだろう。

何が書いてあったのか、忘れた。
わたしは、すとんとこころに落ちて問題が解決したら忘れるタイプ。
脳のキャパが小さい。
そのかわり、解決していないものや、タスクは、ごちゃごちゃ脳に混ざり込んで、へばりついている。
一掃断捨離できる日は、記憶喪失病にかかった時か、認知症のいよいよ山場、クライマックス、天国手前の時かなあと。

その時は、走馬燈のように次から次へと過去の記憶が蘇るだろうか?
意外と映画のワンシーンばかりだったりして。
だとすると、アタマがまだマシな間に、良いものに触れるのはいい。
当たり前か。

美しいもの、美食、映画、音楽、芸術(あ、これはムリ。難解なものは理解できない)、、、
といっても、わたしごときの喜ぶレベルは、たかが知れている。
そこらへんの歌謡曲だったり、簡単に観れる映画だったり、、、
商業主義に乗らされている、小さなささやかな文化を享受する大衆の一員。

オペラやミュージカル、本場のナマのステージやコンサート、ナマの会場でのスポーツ観戦など、別に、というか、全然、必要ない。
わたしは、気持ちよくなると寝てしまう。
睡魔といういたずら魔法をかける、悪魔だか天使だか知らないが、なにしろ、その魔法にかかってしまう。
気持ちよくなくても、緊張の場面でも寝てしまう。
脳がシャッターを下ろすのだろう。
だが、このわたしの脳は、お天気屋で、気分屋なので、わたし自体が自分を持て余している。
まあ、自分脳とは長年の付き合いなので、優しく暖かく見守っている。


わたしは、自分が嫌な状況を回避出来ないときは、生活以外では、たいがい破綻している。
生活では、我慢、忍耐。
生きていくためには、安泰を手に入れるのと引き換えに、努力は必要だから。

生活以外では、、、
友人関係だとか、趣味関係だとか。
仕事や社会的役割の場合は、嫌を回避するには、知恵を使う。
ズルさで、身を守る。
生活は、ズルさでは守りきれない。
運、不運もある。

最低限、これだけは許せない、耐えられない、という核みたいな、嫌なこと以外は、スルーする。
どうでもいい。

人の尊厳を踏みにじるようなもの、ことは、絶対に認めない。
壊れるから。
元凶から離れる。
幸いにして、そういう不幸に見舞われたことはない。
偶然の賜物である。
もし、偶然ではないと仮定したら、わたしの、気分屋脳が多少影響しているように思う。

自分が幸せになるものには、勝手にキャッチし、不幸になるものは、これまたわたしに無断で、拒絶している。
受け入れ係が、独断と偏見で、五感を頼りかどうか知らないが、進む道の交通整理をしているようだ。

どうしても嫌で、とことん我慢できなくなったら、自分で考えなくても、勝手になんらかの行動に移っているか、あるいは、勝手に状況が変化している。
先々先走って行動しても徒労に終わることが多い。
自分の核は何か、脳の自分担当係に丸投げしている。
なぜなら、自分で考えてもよくわからないし、眠くなるから。

今日は、まだ眠くならない。
ブログ、まだまだ書けそうだ。
脳が元気なうちに、、、
(読む側は、うんざり、、、)


ちなみに、話はころっと変わるが、
ブログ村エッセイ、ブーツさんの日本人気質についてのブログ記事を読んだ。
日本人は、優雅にするのではなく、働くことに価値を見出すとか。

わたしが思うに、何もしない人は、何もすることがないからではなく、何もしたいことがないのだ。
それを退屈だとか、生きがいがないだとか、虚しいだとか、感じる人もいるようだ。

仕事をしている自分、人に頼りにされている自分、役に立っている自分が一番好きな人もいる。

しかし、あくせく、ただただ忙しいのは、何がしたいか、自問自答の時間を持つのが怖いからではなかろうか。
何もしたいことがない自分に向き合うのが、耐えられないのでは?
「優雅に過ごす」と、「あくせくする」は反対語のようだが、あくせくすることで、自分の存在価値を実感している人もいる。
生きている実感を見出すようだ。

わたしは、全然、だ。
何もしたくない。すべきことは、最小限に留めたい。
じゃあ、手に入れた何もしない時間をどう過ごすのか。
文字通り、何もしない。
気分屋脳に任せる、自由な時間となる。
何もしないというのは、自由な時間であるということ。
好きなように出来る時間ほど至福なものはない。
で、何をするかは、各自、それぞれだ。
全く何もしない人はいないだろう。
でも寝るのが好きなら、息をして寝ているだけも至福なのかも知れない。
何がしたいか考えるだけでもワクワクするが、それで1日が終わってしまうのは、それはそれで幸せなのかなあ、、、と。
しかし、逆説的発想だ。
暇だ暇だと小さい文字で、びっしり書き込んで、時間が過ぎるのは、これ、暇から脱出している?

知人で、数独みたいなことを一日中、1週間まるまる、何年もやっている人がいる。
単なる暇つぶしではなく、宝クジだかロトだかの当選番号を予想しているのだが、一種のゲーマーかとわたしは見なしている。
没頭できる好きな時間をその人なりに見つけている。
経費、ゼロの娯楽。

わたしには明らかに不向きであるが、ゼロ予算で、人には人の楽しみの開拓があるなあと感服する。
内容や方法についてはなんの共感もしないが。
その人なりにの時間の使い方なのだろう。
寝たきりになっても継続できそうだ。

今しか出来ないことと、寝たきりになっても出来ることの二本立てが良い。
それなりのバランス感覚は必要である。


今日のブログ、、、長いばかりの時間の無駄使い。
これもわたしの究極の贅沢時間である。

またまたリア充で、スカスカブログ

2020-02-09 | ブログ
ただ今、リア充中。
そういう時は、まったく筆が進まない。
なぜなら、書きたいことがないからだ。
全てを燃焼してしまうと、出し切った心地よい疲労を伴う充足感に満たされる。
スポーツの後や、ハードワークの達成感みたいなものか。

だから、全然、創作意欲が湧かない。
ハングリー精神や、満たされない思いが、良い味を絞り出すのだろう。
きょうは、あきません。
電車、あと一駅で下車して、このまま帰宅して、合同夕食に取り掛かります。

しょうもないブログ内容で、皆さんの貴重な時間をドロボーしました。
ごめんなさい。

一方的、熱き想い

2020-02-07 | ブログ
ファンレターです。

ドンピシャ、ストライク、
ドイツからの写真付きブログ。
きちっとしたブレない視点、表現方法、見せ方、へんに温くも冷たくもない温度、社会感覚、、、

わたしは、わたしは、、、と、暑苦しく自分の人生を押し売りも、切り売りもしないクールなところも痺れる。

食べ物の好みに例えると、、、。
小豆は嫌いだけど、餡子(あんこ)は大好き、だとか、
ソラマメは嫌いだけど、枝豆は大好き、だとか、
枝豆は丹波産に限り、茹で方は、固め、、、みたいな、
色々様々な好みがある。
枝豆が嫌いな人もいるし、枝豆のお菓子は好きでも茹でたのは嫌いな人もいる。
枝豆は大好きだけど、茹ですぎは大嫌い、という人もいる。
一昨年、採れたのは最上級でも、去年採れたのは最悪、とかもある。
天候など、自然にも左右される。
微妙な頃合い、さじ加減、言い出したらキリがない。

そんなかんじで、わたしが今、ピンポイントで大好きな(彼女の今現在更新中の)ブログである。
わたしもそんな風なブログにしたいか、というとマネしようにもマネできない。
元々のキャラが違う。能力も生き様も違う。
なので、対岸からキャーキャーいって眺めるのみ。
好きなものが増えるのは喜びである。

もちろん、いつも読んでいる他のブログもある。
色々違って当然である。
個々に、わたしの感性を刺激してくれる。

忘れられない、わたしの人生の一ページを彩ってくれているブロガーさんもいる。
目には見えないが、深いところで交流している。
いつも、ありがとー。
勝手に心友(しんゆう)認定している。

こういう内容だと、オチが思いつかない。
困った、、、
なにしろ、毎日、毎回毎回、わたしの期待を裏切らない、研ぎ澄まされた記事を異国の地からお届けいただき、とても楽しんでいる。
と、ファンレターの結びは、、、

これからも益々のご活躍をお祈りしています。

て、ご本人の目には触れないだろうけど、それでもいい。
ファンレターって、一方的で、そういうものだから。


恋愛について

2020-02-06 | オトコとオンナ
本日は、わかりやすい、なんの変哲もないタイトルにしてみた。
同じようなテーマの2つのブログを読んだ。
やはり、テイストには好き好きはある。

うーーん、と考えさせられた。
というか、文章の合間に合間に挟み込まれた写真、ショットが美しすぎて、はたと脳波が止まってしまう。
このブロガーさん、フォトグラファーかしら?
魅了されるのは、わたしだけではないはず。
目と脳とこころに、染みる。しばし静止。

まあ、それは良いとして。
継続は力なり、だが、諦めることはさらに難しい。
そういう内容。

ちなみに、わたし、モノフェチなので、モノに対する思い入れがハンパない。
例えばバスタオル。
長女がカナダ留学の際に持たせた、白地に花柄、両端には15センチぐらいずつ紺色一色。(わかりにくい説明)
これを帰りに荷物が多いからと、現地に放置して帰ってきた。
あのバスタオル、わたし、大事にしていたのに、、、。
もう一枚、またまたバスタオル。黄色でワッフル織。
アメリカからの交換留学生(高校生)のホストファミリーになった時、この男子が別の受け入れ家庭の娘さんに熱を入れあげ、その家に通った。
プールか、なにか忘れたが、バスタオルが必要だったのでバスタオルを持たせたら、その彼女の家においたまま、持ち帰らない。
あのバスタオル、お気に入りだったのに、、、。
歳下の高校生を弄ぶ、某一流企業総合職、社会人一年生の女子、罪作りだ。
というか、わたしのバスタオル、返してちょーだい!

と、セコイ話になってしまった。
あ、あと一枚。ピンクのイチゴ柄ミニタオル。
パリ、エッフェル塔、至近距離のアパルトマンに滞在した時、バスルームで忘れてきた。
あれ、新品だったのに、、、
あ、あと、あれ、、、、キリがない。

まあそれは良いとして、、、。
(思い出と共に、モノも忘れてきている)

なんの話だった?
そう、恋は、量ではなく質だと思う。
母や姑は、一生で一度きり、同一人物との関わり(結婚)。
父は、しょっちゅう、気の強い母を離婚したいとボヤいていた。
18歳の時に9歳年上の、近隣地出身の父と結婚した母。
結婚前も結婚後も、何にも知らない子供のままである。
子供のまま過ぎて、感情をコントロールすることも、言葉を選ぶことも出来ないので、わたしは実家から出られたことは、激戦地からの脱出であり、最大の喜びだった。
まあ、父も似たような、短気癇癪持ちなので、どっちもどっちだが、その間に生まれ、育つと、大変である。

まあ、それはそれとして。
一生にたった一人の男性!
今、母は、父の写真を見せても、この人誰?という。
わたしの嫁ぎ先住所や子供たち(孫)の勤務先は覚えていても。

まあそれは、それとして。
血が繋がらない夫なんて、そんなものだ。
血を分けないと、脳には沈殿しないようだ。
一生でたった一人、しかもその男性との間に沢山の子供を産んでいるにもかかわらず。
女性の、ある一面、実態である。
1番先に忘れるのか、、、
なんと幸せな母。

それはそれとして。
何人も恋をしたとしても、最後あたり、人生の終盤戦は、どれぐらい脳に刻まれているか。
直近だけの人か、1番長い期間の人か、1番想い、愛が強かった人か、1番印象に残った人か、、、

なんでもいいのだが。

ブログ記事内で、痺れる発想に触れた。
相手からどれだけの光を浴びるかではなく、いっそ自分で自分を発光させるのはどうか、と。
これは、素晴らしい。
こうなりたい。一人で生きる!

だが、わたしには最も出来ないことだ。
わたしは月。太陽の光がないと光らない。
いや、地球かも?
自転する間、太陽に照らされない闇の時間もある。
朝が来て夜が来て、、、
恋もそうだが、太陽は芸術のテーマだ。
と、こう書くと、まともに恋愛したことがないのが、バレバレである。

とは言うものの、一人ではやっていけないことは、痛いほど知っている。
生きていけない、と書こうとしたが、やめた。
生きては、いける。
イキイキと、やっていけないだけ。

美味しいものを知らないのは、もったいなさすぎる。
そのままでもいけるが、平坦、平常すぎる。
メリハリがあってこその平時。
こころは、弾んだり萎んだり、喜んだり悲しんだり。
プラスもマイナスもあり、いっそ、かき乱される根元を切ればどんなに安泰か。
が、切りたくても切れない、複雑な要素をいっぱい同梱している。
例えば、不倫は幸せにはなれない、という価値観、道徳観。
国によっては、死刑もありえる。
いったん、離婚してからなら良いのか。
結婚、離婚、結婚、離婚、、、エリザベス・テーラーのように繰り返し、青い鳥を探す。

私生児など、ひと昔前なら世間体はどんなだったか?
父なし子と、言われた時代。
差別と偏見の雨嵐。
今は、シングルマザーという位置付けが確立されている。
といっても、ワンオペでは子育ては大変だ。

昭和中期、戦後生まれのある女性Aは、不倫相手との子供を二人産んだ。
周りは、やんややんやの大非難。
その女性の姉B。見合い結婚をして正式な子供を二人産んだ。
今、Aさんは、息子さんは逆玉の輿婚で左団扇(表現が昭和、、、)。
勉強よりも、女性に対して能力を発揮したらしい。
そしてAさんは娘一家と住み、孫にも恵まれ安定の老後。
(その後、自分の住まいを娘一家に明け渡し、自分は一間の賃貸暮らしと聞く。
他から見えるものと、内側、色々あるんだろう)
一方、Bさんは、娘二人、一人は既婚、一人は婚外恋愛、二人ともノーキッズ。
つまり、非難轟々のAさんと、祝福されたBさん。この姉妹、半世紀後は?
子供を産んだモノ勝ちとは言わないが、子供ははっきりカタチとしてわかる。残る。未来に繋がる。
だが、あまり、子供、子供、と無神経に騒ぎたてると、悲しい思いをする人は必ずいる、デリケートな問題だ。

姑は、自分に子供がいるので、それが当たり前と思い(プライドにもなっていると見受けられる)、子供のいない人の気持ちや、状況、事情が全くわからない。
理解しようともしない。
自分の身に降りかからないことは、すべて、全く関係がない。別の世界。想像力が欠如している。
が、自分の身を守るための知恵である。
デリカシーのない発言をズケズケしていたが、戦中派だからまああんなものかと、時代背景から想像する。
と、非難するでも擁護するでもない、わたしのズルい立ち位置。
(ぺこぱ、好きだ〜)

と、文字数ばかりが増えている。
早く、〆ないと。
さあ。さあ、さあ、さあ。(掛け声ばかり、、、)

恋愛は、一人ではできない。
が、マイナスになるようなものなら切るとよい。
ひょっとして、相手が泣いてすがって、別れないでくれ、と言ってくるかも。
そこで、ズルズルいくのか、スカッとスッキリさせるのか、本人が決める、、、とは言うものの、情に流されることもあるだろうし、いや、それではまた悶々とした日々、、、
なんて、ぐるぐる、元の木阿弥。
理性と感情の出口のない、終わりない闘い。

流れに任せたら良いと思う。
自分のこころの声を聞いて、そのままに動く。
あとは神様に任せちゃえ!
丸投げは、楽で良い。
悪い結果になったとしたら、神様を逆恨みしたらよいのでは。
(無神論者のわたしは、お気楽)

なるようにしか、ならない。
なるように、なる。

わたしの恋愛論、お粗末過ぎて笑える。







またまた未知ブログ、面白いわあ〜

2020-02-05 | ブログ
ブログ村エッセイ、、、いろんな人が出たり入ったり。
つい最近、わたしのこころを吸いとられそうな、思考と行動の仕分け係みたいな、精神的・交通整理ナビゲーターみたいな女性が現れ、衝撃を受けている。
しかも、写真は、痺れる、、、
澄んだ街の光景に差し色が効いている。
異国の静かな佇まいに、こころが浮き彫りにされるようだ。
だが、共感のあまり、わたしの思考はピタリと止まってしまうのが、良いような、良くないような。

ところで、、、
わたしは新作映画を月に二回は映画館で観る。
わざわざ人混みに出向かなくてもよさそうなものだが、出かけたついでに、省エネ行動の一環か。
自宅で籠って観ないのは、自宅鑑賞は、本格的に籠るようになってからや、退院目処の立たない長期入院時にしようと、密室鑑賞はお取り置きしている。

期待も下調べもせず、予備知識ゼロで観る。
CGで作り込まれたものや、精巧な実写にも劣らないアニメなど、こころ動かされるものに出会う。 
が、映像や音響を通して魂の叫びがこころ奥底に沈殿する前に、次々と次作を観るものだから、わたしの頭の中で記憶とテイストが、ごっちゃになっている。
キャッツと、フーテンの寅さんが同居。
飴を舐めながら焼肉を食べているようなもの?
独自の、わたしの、はちゃめちゃな感性を生み出している。
現実と空想、想像、創造が加わって、なにやらわからない不思議な世界を作り出す。

今も、自宅、ダイニングの目の前に見える二階まで高くそびえる木々の葉っぱが、風に弄ばれているのを見て、葉っぱで形成されたぬいぐるみが、快活にリズミカルに動いているように見えて、微笑みながら目で追っている。
そんな映画シーン、いくつもあったなあ、、、

長年、自宅に軟禁されていた、ミャンマーの指導者アウンサンスーチーさんみたいな状況に置かれても、けっこう、遊びは色いろありそうだなあと、にやにや。
(国際的活動家が活動期に自宅軟禁が15年にも及ぶと、そんなお気楽なことは言えないが)

というか、頭が変になっても、今とあまり変わらないような気がする。
ボーダレスかなあと。狂気?
優しい、ぼけ?
自然の光を浴び、風に吹かれた木々の葉がさやさやと揺れ、楽しいおしゃべりが脳内で繰り広げられる。
これ、ちょっと、いや、大いにヤバい。

なんの予定もない休日は、思いっきり解放感を満喫して、目や耳を通して、遊んでいる。
なぜかすごく楽しい、飽きない。
柔らかい陽射しは、最大のお友達である。(なんて書くと、ほんと、世俗と遮断されたアブナイ世界)

わたしは、いくつかの義務ワークと、イベントが少しあればよい。
それと、出番待機スタンバイ時間。
あとは、すべて自由の時空に身を置くと、こころは軽く暖く、ふわりふわり、、、

と、いつまでも抽象的な、わけのわからないことをだらだら書いていては、いけない。(と、誰が言った?)


ちなみに、
全然関係ないが、2019年末のM-1グランラプリ3位の漫才の「ぺこぱ」、すごく面白い。
身を乗り出しそうな大好きなノリ。
相手を否定しそうで否定しない、延々と続くあのツッコミが。
卓球やテニス、バトミントンで、敵のすごい強烈な球をしつこく、うんざりするほど、ほんとにしつこく返して、相手のミスを誘う戦法に少し共通点を感じる。
じつは、わたしも、そのタイプ。
決して攻めない、相手を否定しない、言い負かさない、勝たない。
ただたた相手に好きなようにさせる、存分に力を出させる。(あ、失礼。出していただく)

で、それで?
それで、全部?

相手がほとんど全力を出し切ったころに、相手の疲れや不注意からのミスを誘発させる。
一人で勝負していただく。
一人で攻めて、一人で疲れて、一人で手の内、使い果たし空っぽになっていただく。
でも、必ず、再生産はあるし、再生産は、最初とはまた違った味になるので、いい味、バージョンアップになる。
また、頼もしい別の新しい力が出ている。作り出される。
わたしも楽しませてもらえて、なにより。
良かったねー。


最後に、、、
今日、初めて知った、思いっきり声を出して笑った、ブログ。
面白い〜〜〜。
ブロガーさん、まだ学生さんなのに、感性って年齢じゃないんだ、と感激した。
斬新な出会いだった。


言葉に出すか、出さないか

2020-02-03 | 日々のこと
他の素晴らしいブログを読まずに、書く。
読むとエネルギーが吸い取られる場合と、ヒント、共感を得て、書く気が湧き上がってくる場合がある。
わたしの場合は、なりゆき、偶然のようだ。

さて、昨夜、夫は孫Aが神社の護摩木に願い事として書いていたプレゼントを渡した。
夫は孫Aと一緒に遊ぶでもなく、電池を入れるために必要なため、娘婿に要請されたドライバーを取ってきただけで、テレビを見ていた。

遊ぶ部屋は和室で、ダイニングルームから離れている。
夫は二回ほど姿を見せ、立ったまま、高い位置から、
「プレゼント、嬉しい?」と、聞いていた。

いつも、夫は、ああ言う。
「ほら、おじいちゃんに、ありがとうって、言いなさい」と娘に促され、「おじいちゃん、ありがとう」と言う(言わされる)孫A。

夫は感謝の気持ちを言葉に出してもらわないと満足できないのか。
楽しそうに遊んでいるのを見たら、わかるではないか。
わたしは、しゅるしゅると温度が下がった。
と同時に、モノやお金でしか愛情のカタチを表現できない夫が、生産性を追求する社会での外貨獲得戦士である大勢の夫たちの姿と重なり、少しかわいそうにもなった。
成績で評価される競争社会の犠牲者か?
まあそのおかげで、プレゼントも買えたのだし、悪いことばかりではない。

昨夜、放映されたテレビ番組、デカ刑事ものドラマにあったが、自白の強要が、サブテーマだった。
まあ、それに近い、そういう自己満足が欲しいのだろう。
でなきゃ、マザー・テレサじゃあるまいし、はっきり口に出してお礼の言葉を耳に刻み、私利私欲を満たさないと、やってられない。
たんに、喜んだ顔を見たいのだろう。

例えば、奥さんが愛情たっぷり込めて、時間も手間もお金もかけ、研究もじっくりして技術も磨いて作った食事を給仕し、食べる家族の一挙一動を食い入るように見つめ、「美味しい?」と真横で聞かれると、食べる側は、喉を通るにも目を白黒させ、味どころではなくなる。
暑苦しい押し売りは、喉が詰まる。
「美味しい」の脅迫、強要。
それなら、そんなにまでのご馳走、作っていらんです、、、。

そこまではひどくないにしても、感謝の強要とも取られるる、「おじいちゃん、ありがとう」も、気持ちを言葉で表す世間の常識ルールを幼い頃から身に付けさせるのは、教育の一環かも知れないが。
まあ皆んな善人である。
重箱の隅を突いても、誰も幸せになれない。

美味しい!も、普通に自然に、笑顔が物語っているだろう。


ちなみに、娘によると、あの電車シリーズでまだ喜んで遊んでいるのは幼稚らしい。
よほど電車が好きな子は別として、大概の子供は就学前に卒業するとか。
まあ幼稚もいいんじゃないかと。
罪のない電車遊びで、喜んでもらって、まだまだ楽しい時期は続く。
家族の皆んな、良かったねーー。


家族で祝うお誕生日

2020-02-02 | 日々のこと
わたしの中身のない直近、更新ブログに訪れていただいた皆さま、ありがとうございます。
と、まずはお礼。

ちなみに、つまらない記事のほうが閲覧数が高い、、、これ、皮肉である。
が、短いほうがいいのだろう。

ああ、また無意識に上から目線になっている、、、いかん、いかん、、、。

時間が取れたら、じっくり書きたいのだが、またこれが長々した文章になってしまう。
長いのはいいけど、結局、何が言いたい?
と、自分でも早く〆て終わらないかなあとヘキヘキ。
着地点、落とし所が見つからず、トラブルで空港の近く上空を旋回している飛行機のごとく。

もうすぐ電車、下車。
今日は比較的近くのエリアに行くので、移動時間は短い。
なので、車中、スマホでブログ更新は無理だ、と思っていたら、別事情で15分ぐらいの待ち時間が発生。
やったぁ!
と喜んでいたら、あと5分しかない。

さささと書こう。
(最初からここから書き始めていたら、ちゃんと書けたのに)

今日は孫Aの誕生日パーティ。
実際は昨日が誕生日なのだが。
皆んなの事情で日曜日が、いつも我が家で合同夕食となっている。
材料は一昨日に揃えた。
問題は、わたしの帰宅がいつも夕食ギリギリタイムだということ。
いつも、すごい勢いで用意する。
つまり、手抜きということ。
今日は、お誕生日祝いなのに、いつもと同じ手抜きパターン。
孫Aからは、お赤飯をリクエストされている。
そこを栗ご飯に変更してもいい?と孫Aの許可を前もって得た。
でもお赤飯1人分も追加する予定だ。
ただし、既製品、半加工品。

その他のメニューも、いつもより手抜きかも知れないぐらいの手抜きぶり。
まあ良い。無理はしない主義。
というか、わたし、あれこれ忙しいので。遊びに。

あれも、これも、楽しみたいわたしは、孫Aの誕生日メニューを手抜きすることで、折り合いをつけている。
誕生日プレゼントは、、、孫Aが、今年、新年、元旦に、夫の実家のある地元神社の護摩木に書いていたもの。
「電動電車が欲しい」と孫Aが書いているのを見て、「サンタさんへの手紙じゃないんよ」と娘にたしなめられていたが。
夫はそれを見てしまい、お望みの品をプレゼントしたくなった。
孫A本人は、母親にアカンと言われたこともあり、希望の品はランクダウンしたもの(プラレール黒潮パンダ号)をリクエストしていた。
先に黒潮パンダ号を買った夫。
が、娘に相談して、護摩木の願い事プレゼントでもいい、と教育責任者(娘)から許可してもらった。
一度に二つ渡すと感激が薄まるということで、黒潮パンダ号は、進級祝いに回すことになった。

今日は、護摩木願い事のサプライズ・プレゼント。
孫Aは、喜ぶかな?
皆んなが楽しい、家族で祝う、お誕生会。

帰りの電車内で、記事を書き上げている。
スレスレセーフ。
ブログはアップ、セーフだが、わたし以外の家族たちは我が家で口を開けて待っている。
わたしは、帰宅後は戦争。
すごい勢い、スピードで夕食を作る。

ささやかな、小さな、未来に繋がるイベントは、やはり喜びと活力をもらう。