蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

昼行灯の反乱?

2021-03-25 | 日々のこと
NHK TV番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」
昨夜は、サンドイッチマン。
特別編が続々と続く。
まだ次もあるようで、ありゃりゃとなって、特別感が薄れる思い。

番組を見て思った。
取材対象者をどう料理するかによりそうだ。
サンドイッチマンでなくても、別のお笑い芸人でもよいところを何故あえてサンドイッチマンなのか?
わたしはかなりの腹黒なので、人の探らなくてもよい腹まで探ってしまう。
サンドイッチマンも散々言われているようだが、震災復興支援、手助け活動を売名行為だと揶揄される声もあるらしい。
他人は勝手に何でも好き勝手言う。
自分の発言には責任を取らない。
たんなる感想だから、自然の発露だということか。
感想や意見を言うなら、自分の氏名を公表すべきかと思ったりするが、意見を言う人は激減するだろう。
名のある人しか言わなくなるだろう。
それはそれで結構かも知れない。
言論の自由を奪うわけでもない。

自分のブログで意見を言うのは?
当局の方へ。
それぐらいはいいと思いませんか?
物事には賛否両論あることだし。

と、話はズレている。
サンドイッチマンの、どの部分に焦点を当てるか、どういう表現にするか、でサンドイッチマンの見え方が大きく変わる。
番組の作り手の意向が入るを感じることもあるが、大変なんだろうなあ。
映像に収めるには、密着取材陣とのコミュニケーションがキーになる。
信頼関係を築くのは土台になること。

わたしはサンドイッチマンは好きだが、次回、近々、志村けんらしい。
今回、サンドイッチマンが特集されたことで、お笑い芸人がプロフェッショナル対象の中で選ばれたことを喜んでいたが、また引き続き次回もお笑い、しかもわたしの嫌いな芸風の志村けん、、。
結構、がっかりした。

好き嫌いは自由だ。
感情に蓋は出来ない。
書くのは良くないのか。
嫌い、というのは、誹謗中傷にあたるのか。
嫌い、は、あくまでも芸風。
梅は好きでも梅干しは嫌い、のようなものか。

と、どうでもよいことを書き連ねている。
どうも最近、わたしは、作り手側の意図を読み取ってしまう傾向がある。
その意図が、わたしの思っていることと合っているのかどうかもわからないのに、わたしが勝手に感じてしまう。
プロデューサー目。
ニュースの方が、作り手意識を何も考えなくて良いから気楽かも知れない。
とは言え、ニュースにも報道側の意図があることもある。
ドラマなどは当然、制作意図がある。
もともと作りものだから良いが、ドキュメンタリーは作り手側の感覚によって、伝わるものが違ってくる。
人物など最たるもの。

最初の入り口、手がかり、きっかけとして興味を持つことは良い。
そこから多角的に自分で調べたり考えたりする窓口になるのなら、理想的だと思う。
まず知ることは最初の第一歩である。
伝えられていることが、正しいか、正しくないか、それを読み取り判断するには、多角的な目や時間が必要だ。

ちなみに、、、
わたしは、物事を深掘りする傾向にあり、日常生活には適していない。
切り込み過ぎて敬遠される。
なので、真剣ではなく木刀、いや、素手、いや、軍手を付けて、接した方が良いと感じることがある。
eye maskか濃いサングラスをかけ、あまり見ないようにする。
もともと目は悪いから見えないのだが、こころの目がその分見え過ぎ、研ぎ澄まされている部分があり、個人にその目を向けるとお互いが傷つく。
なので、いくら親しくても適当な距離感は必要だと感じる。
人に侵入して欲しくない部分は誰にでもあるはず。不可侵ゾーン。
見えても見えないふり、気づいても気づかないふりを、ぎこちなくではなく、自然体で行いたいと自分に言い聞かせている。
自分の思い込み、過剰反応かも知れないし。
思い違いのこともあるだろうし。

(昔の)蛍光灯、昼行灯(=反応が遅い)キャラクターのわたしなのに、なぜか、歳を重ねると、どうでもいいことに必要以上に神経が研ぎ澄まされ、嫌になる。
脳のキャパシティが狭まる一方の昨今、ぼーっとしたい楽園脳が反乱を起こしているのだろうか。