姑の50年来の知人とバス停で遭遇した。
「おかあさん、お元気?」
と聞かれたので、
「亡くなりました」
と答えた。
あらそう、、、としばらく絶句し、涙を流された。
仏さんはどちらに?と聞かれた。
お供えを送ってくれるらしい。
日持ちする、京都の美味しい「おかき」だそうだ。
「ぜひ、お葬式に参列したかった」と仰るものの、日にちを伝えると、
「あら、その日なら無理ね」といたって現実的。
みんな、そんなものだ。
「ご主人(わたしの夫)も、ほっとされたでしょう」と。
いつも気になっていたことの肩の荷が降りた気持ちだろう。
「ほっとされたでしょう」
女性の方々からは、その言葉をよく耳にする。
偽りないこころの声だと受け止める。
他界するには適正年齢がある。
それより上でも下でもよい、その人独自の適正年齢。
それを過ぎると本人も周りもしんどい。
周りは、本人が苦しんでいるのを見るに見かねる期間がある。
はやくお迎えが来てくれることを本人も周りも願う。
長寿を全うするとはそういうことだ。
それに比べて、若い、ぴんぴんしている人がある人、突然、事故等でこの世を去る。
周りはこんなに悲しいことはない。
あまりにも残酷だ。
こころの準備は全く出来ていない。
明日や来週、来月、来年のその人とのプラン、行動予定が突然、切れてなくなる。
いないことが信じられない。
悪いジョーク、悪夢だとしか思えない。
だが、この世にいない現実に直面し続けると、現実として受け止めるようになる。
それには時間がかかる。
しかし、こころの中で生き続ける。
天寿を全うした人に対しては、晩年の、直近の思いが強く、昔のことを上書きする。
子供の成長と同じ。
自分で自分の寿命を決めることは出来ない。
勝手に決める人もいる。
まあ人それぞれ。
わたしなら?
とりあえず、3年ぐらいの猶予は欲しい。
いや、1ヶ月でいいかも。
いや、猶予なしがいいかも。
何も考える時間がないほうが幸せだとも思う。
※
写真は生後2カ月の超健康優良児孫。
バレエシューズの絵柄デザインの靴下を履いて、足だけ登場。