蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ゲーム依存性

2018-11-15 | わたし
趣味関係の知り合いでゲーム依存性の人がいる。
大の大人が、、、といっても、大人を通り越して、還暦過ぎたおじいちゃんが、、、小学生の隣でスマホの画面を夢中で覗き込む。
小学生もゲーム。同じゲームだったりして。

彼は、ゲームをやめよう、やめようと自主規制しているが、どうしてものめり込んでしまうらしい。
あまりある暇な時間をゲームに費やしたら、なにもすることがなくて鬱になるよりいいではないか、と、わたしは思うのだが。
彼曰く、強力なキャラクターにするために課金してしまうとか。
ゲーム会社もそうやって、客を夢中にさせ、お金を絞り取るのか。

お金も時間も限られているのに、ゲームに費やしてしまう自分が嫌だから、お金がかかるゲームは、今年いっぱいでやめる、と彼は宣言しておられた。
ただし、お金のかからないゲームをするそうだ。

しかし、思うに、、、
競馬やパチンコに、お金をかけずに楽しんでいる人はいるのだろうか。
買い物依存性もそう。お金をどんどん費やしてしまう魔力にハマる。

わたしは、ドケチなので、その手の誘惑には全くハマらない。
いかにお金を使わないか、に喜びを感じる。
ギャンブルは、大嫌い。ギャンブルする人とも、全くおつきあいはない。

でも、何もすることがない、膨大な時間を持て余している人や、出先での時間待ちには、ゲームもよかろう。

ゲームは、費やした時間とお金がゲーム上の成果として手に入る。
だから夢中になるのだろう。
やればやるだけ、はっきりわかるものが手に入る。
人間関係はそうはいかない。

わたしは、全くゲームには微塵も興味がないが。
人には人の楽しみがあり、良さを理解できなくても、不可侵だと思っている。
もし、家族ならイライラするに違いない。
時間やお金をゲームに費やして、家族の団欒タイムも常にゲーム、会話もゲームしながら、外食時もゲーム、だったらとても許容できないと思う。
だが、所詮他人なので、踏み込まない。
非常に寛容である。
こころが広いのではなく、自分とは関係ないから。

そうすると、家族は、身近で一挙一動が気になる。
良いことなら問題ないが、嫌なことならこころの病気になりかねない。
だから、家族とは言え、距離感が必要だと思う所以である。
各個人の意思や嗜好を尊重する。
あるいは協調の精神をもって我慢し合う。

子育て時期は、尊重もへったくれもなく、ただただノルマをこなし、目標に向かうのみだった。
不思議と子供たちは、すんなり、ついてきてくれた。
子供も巣立ち、二人になると、ノルマなど無いわけで、あとはいかに残された二人が邪魔し合わないか、だと思う。
夫婦間もそうだし、子供に対しても。
邪魔しないで、なおかつ、そこそこの喜びや楽しみをシェアする。
踏み込み過ぎずに、でもこころの中では手と手を取り合っている。
そういうのが、わたしの理想だ。

ゲーム依存性の家族の方は、お気の毒なような気がする。
ギャンブル依存性でもない、かわいらしい額の課金だからまだ深刻ではないが、顔は目の前にあっても常にゲームでは、「わたしたち、家族なの? 一緒にいるだけならそれでいいの?」と思ってしまいそうだ。
出かけなくても家庭内でも出来るゲーム依存性は、意外に、思ったより深刻かも知れない。

しかしあまりにも自分の要望を押し付け過ぎるのも重い。
必ず家に帰ってきて、家で食事をして、生活費も入れてくれる。
それでいいのでは?
ゲーム好きのATMではだめなのか?

と思っていたのは、ひと昔前。
今は女性も経済的に自立している人は、そんな我慢はしないと思う。
(パートぐらいの、お小遣い程度の収入の人は、経済的に自立しているかというと、微妙だが)
しかし、経済力があるからといって、お金で縛るのもどうかと。
一人一人微妙なバランスで、家族と関わっているのではないだろうか。

理想は理想、現実は現実。
あまり理想をふりかざすと、そのギャップに苦しみ、自分の首を絞める。
「わたしはこんなに頑張っているのに、あなたはどうして協力してくれないの?」
なんて言われたら、けっこう、うんざりすると思う。
でも全く要望を示さないと、相手はわからない。
さじ加減は難しいが、それぞれの各自の方法やタイミングで、やっていけばよいのでは。

相手が自分の思うようにならないからと絶望するのは、早い。
人など、元々、思うようにはならないものなのだ。
それを思うようにしたい、などとは、思い上がっている。
なら、先に理想に向かって自分がやり始め、やり続けて自分が変わらないと、相手は変わらない。
自分が変わっているのに相手は変わらなければ、その時にまた考えたらよい。
捨てるなり、切るなりすればよい。
頑張り続けて変わった分、十分、強くなっているだろうから。
捨てる勇気も育っていることだろう。

捨てる勇気を育てるまでは、かなり自分は努力しなければならない。
わたしは、多分できない、無理だろう。
でもやってみて、少しでも動いてみる、行動することは大事だと思う。
相手を変えるのではなく、自分を改造することからスタートしたほうがいい。
許せなかったことも許せるようになっているかも知れない。