基本的に、わたしは理屈屋である。
が、思考があまり深くないので、正確には「屁理屈屋」である。
突き詰めて考えると、アタマに酸素が不足して、
甘いものやら、飲み物やら、ついでに辛いものも、手当たり次第ぱくぱく。
たんに、思考続行に、飽きてくるのだろう。
わたしが最近、見に行くのだが、とあるSNSのコラムを書いている人がいる。
彼女が、愛について、なんたらかんたら、記事を書いていた。
わたしは、一般愛読者としてコメントを書いたのだが、
あーでもない、こーでもない、と、書いては消し、書いては消し、面倒になってきた。
アタマの中だけで、愛について語ったところで、なんの役に立つ?
実行、実践をしなければ、言うだけなら、言わないほうがマシ。
なにも知らない無垢、無心の、真っ白のほうが、マシ。
ここはどこ? わたしはだれ? 今日、ご飯食べた? あなただれ?
無知のほうが、まだマシ。
へんに考える力とヒマがあるものだから、理想論的なことを書く。
そんなヒマがあるなら、
愛する人のために、総力を結集させて、手作りの、手間ヒマかけた料理やら、掃除やら、住環境を整えるとか、
実践で胸の美しき真心を表現すればよろしい。
だが、こういう人に限って、一生懸命作った、料理なのに、
夫は「無表情で何も言わずに食べる」と、失望し、ついには、逆ウラミしかねない。
わたしなんぞ、手作り料理の一皿を、夫は、一瞥(いちべつ)したのみ、(箸はつけない)
お箸の先で、つつつ~っとテーブルの向こう側に押しやられ、
夫が自分で買ってきた、コンビニのカットキャベツやら、なんやらかんやらをばくばく食べる。
「お腹いっぱいだから、ごちそうさま」と、言い、
その後に、同じくコンビニで買ってきた、高カロリーの嗜好品を目の前で食べる・・・
こういう光景、態度を見せ付けられ、にっこり、微笑むほど、わたしは、機械のような感情のない人工知能ロボットではない。
と言いつつ、最近の人工知能ロボットは、かわいいし、精巧だ。
自動掃除機のルンバだって、掃除したあとは、自分の椅子に戻って、ご主人が帰ってくるまでセルフ・チャージして待っているらしい。
水をやらなくてもいい、餌もやらなくてもいい、
そんな人工知能ロボットが欲しいぐらいだけれど、・・・・・いりません。
たいして、わたしのすることは、高度でもないし、ハードでもないし、量もないので、大丈夫。
湯気が出たアタマを冷やすための、パソコンのひとつもあればいい。
スマホ対応でも十分。
(エンピツと、裏が無地の折込広告チラシ、では、不十分)
愛がどうのこうの、そんなこと、日常で生活していたら、いちいち真に受けていたら、
カラダもこころも、もちません。
死なない程度に愛があれば、よろしい。
枯れない程度に水を与える程度の愛で、よろしい。
理想と現実は、自分の中でうまくバランスをとって、
毎日、明るく楽しく、たくましく生きていたい、と願うのであります。