まだまだわたしは、ネット依存症である。
チェーンスモーカーが、無意識のうちに新しいタバコをくわえているかのごとく。
気がつくと、ネット世界をうろついている。
パソコンの電源を入れるまでもなく、スマホにしたら、小さな軽いパソコンが、いつもポケットの中に納まり、
電源を入れたり、切ったりも、瞬時。
電車内でも、トイレの中でも、食事中でも、横になって寝ながらも、目が覚めて起き上がるまでの間でも、
いつでも、どこでも、まるでカラダの一部のように、いっしょにいる。
これを依存症と言わずして、なんという?
べつに、あてもなく、ネットサーフィンはしない。
メール(業務連絡も含む)、SNS、ブログ、ニュース、共有している写真アプリ、LINEなどをチェック。
目の前にいたり、違う階にいたり、ほんの近くに住んでいる娘たちとでさえ、LINE。
情報がすぐに入ってくるので、いちいち状況を時系列を追って細かく全員に説明したり、されたり、しなくていいから、わかりやすいが。
知人で、まったくインターネットをしない人がいる。
ガラケーで、しかもパソコンを持たない。
その人物には、インターネットネタが通じないので、ある意味、ほっとする部分がある。
銀行振り込みは、律儀に銀行に出向いて、窓口で行う。
アナログ人間である。
その人物は、SNSの概念やシステムが、まったくわかっていないので、
とんちんかんな発言を聞くと、時折、イラっとする。
いっそ、母世代の人で、メカの「メ」も知らない、パソコンの「パ」も知らない超お年寄りであれば、問題ないのだが、
そういう世代ではないところにもってきて、(しかし予備軍である)
自意識が高くプライド満々、偉そうにしているだけに、よけいにムカッ腹が立つ時がある。
しなびたシーラカンス、あるいは、ふやけたシーラカンスになるほうが、
元気なシーラカンスより、ずっとかわいい。
プライドを保つためには、なにか、それに代わるものを失うってことだ。
角が取れると、プライドまで取れてしまうのか?
せめて、プライドを保ちつつ、角も取れ丸くなるのが理想だが、凡人には至難の業だろう。
シーラカンスは、自分がシーラカンスである自覚が必要である。
(が、自覚さえすれば、なにも卑下する必要はない。逆切れシーラカンスは、タチが悪い)
と、話は大きく脱線。
わたしは、言葉も通じない、地球の裏側に旅するときでさえ、飛行機や泊まるところはもちろん、
スケジュール・イベントも、すべてネットで手配、準備した。
もはや、ネットのない生活は考えられない。
会ったこともない、見たこともない、行ったこともない、人、ところ、コトをすべてネットで手配するのは、
ハイリスク・ハイリターンであるが。自己責任で。
時運、ノリと運も、ある。
・・・と、また少々脱線。
で、インターネット中毒、依存症となるわけだが、最近、ブログ中毒からやや脱しかけている。
そのかわり、SNSに、よく行くようになった。
ブログは、ぽつんと建っている一軒家(一戸建て住宅)とすると、SNSは密集地域に建つ大規模集合住宅である。
人もジャンルも多彩。
SNSは、自分の記事をアップすると、会員さんがコメントをつけてくださるので、それに対するコメント返しが気になり、
はやく、すべてのリコメを書かねば・・・と強迫観念に近いものを感じ、意外に楽しみきれていない。
(こういう、どうでもいいことは、律儀なわたし)
そして、閲覧数は公開されるし、コメント数も、人や記事によって、多い少ないがある。
他と比較したりして、他人に左右され、マイペースを貫くには、時には不愉快な雑音になったりする。
さらに、人の日記にコメントしたのに、自分のコメントにはリコメがなく放置されたり、(うっかり日記主が見落とす場合もあるだろうけれど)
いかにも適当にあしらった感があると、誠に自分勝手であるが、嫌になる。
時には、わたしは超・自己チューの極みで、自分の書き込んだコメントを削除してしまったりする。
自分が一生懸命取り組むからといって、他の人も熱心とは限らないのに、つい、自分を基準にしてしまう。
リコメをいっさいしないとか、そういうスタンスならわかるが、
何人かリコメを書き、残りの人を途中でほったらかし、
新しい記事を次々アップしている人を見ると、その人の性格が見える。
50以上の多くのコメントをつけられる人もいるが、ひとつひとつに、まともなリコメを期待するのは、間違いである。
友人(お気に入りさん)が軽く100人以上ある人の日記は、一方的に読むだけでよい。
関わっても、時間の無駄。
その中毒になりかけているSNSでさえ、脱会しようかと考えたり、
新しいハンドルで、入会し直そうと思ったり・・・するが、行動には移さない。
おそらく、しないだろう。
とりあえず、静観時期を保っている。
なにしろ、インターネット暦が、長いので、そうそうカンタンには依存症からは抜けられない。
しかしながら、わたしのインターネットも、量から質へと移行しつつある。