goo blog サービス終了のお知らせ 

蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

薄情もの

2013-02-10 | 人生

苦悩されている皆様方には、申し訳ないけれど・・・

わたしは、まったくというほど、皆様方の苦しみが、我が事のように捉えることができない。
同情はするが、自分のこととして、置き換えられない。
なぜなら、自分は、ちっともそんなことの経験もないので、感情や感想が湧き上がらない。

喜びも同じ。
やたらめっちゃか喜んでおられるのを見ても、どうも、ぴんと来ない。

わたしは、感情が薄いというか、薄情、冷徹、というか、アップダウンが少ない、というか・・・
古びたロボコップの、ひ弱いバージョンじゃなかろうか。
よろよろロボットおばさん、か。


上娘が、おそろしく、いろんな知識を得て、はじめての子育てに挑んでいる。
非常に情熱をもって、手間隙と愛情をかけて、丁寧に育てている。
自分の時は、まったくといっていいほど、なんにも、ほんとうに、なんにも考えず、
ただただ、毎日、子供を育てていたんだと、ある意味、驚きの目をもって、見ている。
当然、婆は、控え要員として、ベンチの裏の、そのまた裏の、第4控え室ぐらいで、ぼおっと、呼ばれるのを待つだけ。
しかし、いまのところ、ほとんど、呼ばれないし、文字通り、出る幕がない。
(子育て戦争が激化して、ややこしくなると、こんなこと言っていたことが、懐かしくなるかも知れないが)

今の世代の子は、インターネットなどで、情報や交流が盛んになり、日常化し、
我々の時代の情報や、方法など、通じない感がある。
ま、停電の時は、昔流で、アナログの世界で、出番が来るかも知れない。
(しかし、それも、ぼおっとしていただけの経験では、あまり役に立てるとは、期待できない・・・)


人の誕生や死は、ものすごく大きなこと。

話は、変わるが、・・・・

ペットの死も、そう。
わたしは、ペットを飼ったことがないので、
(昔、子供の頃、犬や鶏を家で飼っていたが、ペットというカテゴリーには収まらないかんじ。
可愛がるというよりも、実生活に役立てるためのもの)
お気に入りブロガーさんが最近、突然、ペットを亡くされたが、その喪失感を共有できず、慰めの言葉がかけられない。

わたしは、祖母や父、義理の祖母や父を亡くしているが、いまひとつ、喪失感がない。
なぜなら、彼らは、高齢になってからの死であり、天寿を全うした、と、わたしは捉えている。
こんなに長生きでき、しかも、おそらく悔いのない人生を閉じることができて、よかったね、という思いすら、ある。

なので、さほど、悲しくない。
思い出として、こころには、残っているが、そう、しょっちゅう思い出すこともない。
が、あなた方がいなければ、今のわたしはないし、子供や孫もいないわけだから、強く感謝の念は持っている。

若く、突然に、人が亡くなるのは、もちろん悲劇である。
しかし、亡くなる時期を越えても、生き続けて、しかも自立していない場合、これは、どうなのか。
PPK(ぴんぴんころり)の理想そのままの最期を迎えた親戚が、けっこういる。
理想だ。

彼らは、自立していた。
ちょっと気難しい、うるさ型の人もいたが、若い人々に侮られることはなかった。
自立って、素晴らしい。
母親たちや、わたしが、理想どおりに行く、行かないは、別として。

自分ではどうしようもない運命や宿命に振り回されることがあるとすると、
そういう時は、多くの人は宗教にすがることだろう。
じっと流れに身を任せ、祈るのみ、なんだろう。
へんにあがいても、逆効果のこともある。
大きな流れに逆らうことなく、静観していると、自分の進む道が見えるはず。

もし、その道の向こうが、この世でなかったとしても。
導きのままに進むと、安らかなこころで、いられるのかも知れない。
今は、想像しているに過ぎないが、想像で収まっていることに、感謝しなければ。

実際、その時が訪れても、穏やかな気持ちで、いられるかどうかは、わからないが、
毎日、平穏無事に過ごせることは、じつに幸せなことだ。

ある程度の年齢を重ねると、つまり、長生きすると、人は宗教っぽいことに熱心になるようだ。
それは、年齢的に考えて、次のステージが、この世ではないから。
若い頃には、考えたこともなかったし、そういうお年寄りの宗教活動が、まったく理解できなかった。
自分もそういう年齢に突入しかけているのか。

いや、まだ、早い。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ