蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

お鮨、好きだったはずなんだけど。

2011-01-24 | 

昨日は、夫側の親戚の法事が(地方で)あり、夫が出席した。
夫は、山のように、それこそほんとうに、山のように、色々いただいて帰って来た。

お昼のお膳のうち、カニをはじめ、手をつけなかった品々、
そして、それとは別に、ぎっしり、ずっしりのお鮨折詰、
10個も入っている、おおきな、あんこたっぷりのお饅頭、
お供え品のおすそわけの数々(和菓子、お蕎麦、バナナ、りんご、オレンジ、・・・多い、重い・・・)
梅干し1箱、さらに商品券。

それに加えて、
赤ちゃん1.5人分はありそうな重い大きい白菜を3つ、まるまる太ったキャベツは、なんと5つ、
大根(中サイズ)5本。

なんで、こんなにたくさん・・・

キムチでも漬けないと、消費しきれない。(漬け方、わからん・・・)
毎日、毎食、ロールキャベツ攻めにしても、お好み焼き攻めにしても、
ちょっとやそっとじゃ、食べきれない。

日持ちするように新聞紙でくるみながら、アタマのなかで、ぐるぐるハッパが宙を浮く。
食べ助けしていただくため、ヨイショヨイショと配り歩く先の人の顔が次々、浮かぶ。
あーー、めんどくさい。

玄関に放置してあるが、ものすごくスペースをぶんどっている。

今回は、夫が車で行くということを聞き、
法事が開かれた家の、若いお嫁さんの実家からも、わざわざ野菜を持ってきてもらったらしい。
ご苦労様です。そんなにまでしていただいて、たいへん、申し訳ないです。
多くの人の手がかかっている。
感謝しなければ。

ホシイものを、ホシイ分量、ホシイときに、ホシイ

ちなみに、わたしはいつも、キャベツは、半個、大根も半分、買うことが多い。
1個や1本、まるまる買うこともあるが、重いし、たいがいは半分。

そして、下娘Rは、和菓子はいっさい口にしない。
夫も、ほとんど食べない。
つまり、わたしひとりで10個まるまる食べることになる。
とりあえず、5個冷凍したが、冷凍庫には、いつのかわからない、和菓子が、ごろごろ。

そこへもってきて、昨夜は、夫の仕事関連の人のお父さんのお葬式があった。
仕事上、夫は役をしなければいけないそうで、たんなる出席者というわけにはいかなかったようだ。
法事に続き、喪服、大活躍。

が、そこでまた、お弁当を持ち帰って来た。
上記の食べ物の山に加えて、おおきな立派なお弁当。

わたしたちは、娘Rとすでに食事を終えていたので、
このお弁当、お鮨、カニは、夫ひとりの胃袋に納まることになる。

「このごろ小食になった」という夫。
とても食べきることなど、できやしません。
わたしもお手伝いしたが、途中でギブアップ。
あの、膨大な量に圧倒され、それで食欲が半減。

初めての、経験

お鮨が、また、今まで食べたことがないようなお味。
ごはん(シャリ)が、べちゃべちゃ。
どのお鮨も、みなそう。
わざと、ああいう調理法で作られているのだろうか。
べちゃべちゃのほうが、おかゆ一歩手前みたいで、あまり噛まなくていいとかで、好まれているのだろうか。

わたしは、食にはこだわりはないほうで、なんでも食べるほう。
しかし、あのお鮨には、まいった。

世界には、飢えて亡くなるひともいるというのに、こんなことを言っては、罰があたる。

けれど、「ホシイものを、ホシイ分量、ホシイときに、ホシイ」、なんて、
これは、ゼイタク者の望むことなのだろうか。


去年、夫の家で法事があったとき、
遠方から来られる人のことを考えて、
義母は、小さくて軽い、かたちばかりの高品質なお菓子に加え、「茶菓料」としてお金を封入した。
それは、食べたくもないモノをぎゅーぎゅーに押し込まれるよりも、
すっきりしていて、洗練されていると、わたしは感じた。
ごろごろ重い、食べるのにも困るような、やたら多くの食品を持って帰ってもらうのは、大変だろうという配慮だ。
(粗供養として、べつに、商品券を用意)


仏事って、たいへんですね。

故人たちを供養するために、お供え物をいっぱい供えるようだが、
生身の人間が、それをお下がりとして、いただくのが、この飽食の時代には、時代に合わない。
かといって、捨てるわけにはいかないし。

ろうそくだって、一晩中つけっぱなしにできるものも、できているし、(電燈のようなもの?)
宗教行事も、時代と共に、工夫が必要だ。

なんだか、仰々しい仏事は、仰々しければ仰々しいほど、前近代的であるように感じる。
あえて、逆を行くのが、ポスト・モダン?
敬虔な真摯な、純粋な信仰心で、執り行われている(と思いたい)が、形式だけにこだわっていることもあるだろう。

祀りごとは、お家を継承する義務の一環、みたいなかんじで、宗教心なんかない場合も多いだろう。
宗教心がないとすると、なんのために祀るのだろう?

理屈じゃないんだ、祀るべきなんだ、宗教心じゃないんだ、
絶対にやらなけらばいけない義務なんだ、こころは関係ないけれど、行事なんだ、
ここで、切ってしまってはいけない、避けては通れない、続けなければいけないんだ、
あれこれ、つべこべ言わずに、よけいなことは考えないで、なにがなんでもやらなければいけない、
やらなければ、後ろ指さされて、非難ごうごう、それなら、やったほうが、ましなんだ、
なんて、なかば強制されて、強迫観念に駆られて、今日まで来ているのかな。

いや、人生の選択肢があったか、なかったは別として、自分の与えられた使命として、
当たり前のこととして、案外、なんの疑問も苦痛も抱かずに、(あるいは、悩んだ挙句)
めんめんと受け継がれてきたのかも知れない。

それぞれの地域に、それぞれの感覚

今朝も、昨日のべちゃべちゃのお鮨を食べた。
シャリが、べちゃべちゃだけではなく、芯があるようにも思う。

この仕出し屋さん、店の大将(あるじ)が高齢で、
舌感覚やサジ加減がマヒし、閉店、間近なのかも知れない。
でなければ、こんなものを商品として出すわけがない。
人の動きのある処と、人の出入りのない処では、事情が違うのかも知れないが。

お鮨だけに言えることではない。
暮らし、ライフスタイル、感覚、価値観が違う、それぞれの地域での常識は、
それぞれに正当性をもって、まかり通っている。

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お金があふれかえっているのなら、いざ知らず、
一生懸命、頑張って貯めて、仏事に使う・・・
その気持ちは、ご先祖様に伝わっていることでしょう・・・
頑張っているひとを横から冒涜するようなことは、許されませんね。
文句言ってたら、ほんと、罰があたります。

が、それは、それ、これは、これ。