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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

昭和ブロガーさん

2022-10-31 | ブログ
ハロウィン。
お隣の国では大惨事となっている。
日本での同様の事故を思い出させる。
わたしは、限られた面積に流れる人数を規制されずにどんどん進行していく事態に自分が遭遇すると、ものすごく不安になり恐怖を覚える。
流入する量と流出する量のバランスが取れていない。
海外の観光地や、山、プラットホーム、至るところに不安材料はある。
特に海外の場合は、危機管理のシュミレーションや訓練が十分行われず、危険がいっぱいなような気がする。

さて。
週明け。
ブログ村エッセイ、60代の昭和世代のブロガーさん。
面白く拝読している。
ソース焼きそば、カロリー高いんですけど。
それはそうと、わたしは中学生頃に、一晩で(夜食に)泉屋クッキーを一缶まるごとペロリ、とか、なんでもかんでもモリモリだったけれど。
今、思えば一晩で一気に一人で泉屋クッキーを食べてしまうのは、カロリーもさることながら、駄菓子ではないので、もったいない。
ばばばばと勢いで口に放り込まず、少しずつ、じっくりゆっくり、時間も美味も堪能したいところ。


ちなみに、ブログ村に長く在籍していると、味わいある趣味人が深く埋もれているのを知り、楽しい。



文学に縁がない

2022-10-20 | ブログ
裕さん、ブログ村エッセイの、ご注目の文学ルーキー、どなた様かな?
興味津々。
わたしも本は読まない。
社会的な教養書みたいなものは、たま〜に読むことがある。
が、ほぼ読まないと言っても良さげ。
ブログ村住人のある方に昔むかし、リクエストされ、自分で小説を書いたこともあるが、ほんの少し。
ちょびっと、リトルビット。
あくまでも要望に応えてみただけのチャレンジだった。
当時、リアル知人が文章教室で小説を習っていたこともあり、小説を書くにあたりルールを色々教えてくれた。
が、それが重苦しく、自由に書きたい野生児のわたしとしては、窮屈で足枷になった。
自分が好きなように伸び伸び書きたいわたしには、面白くなかった。
なので、一作でやめた。
制約やルールは、わたしは大嫌いである。

ちなみに、他人の書いたものを読む時、わたしは、文章表現法はさることながら、視点、感性、考え方、捉え方に着目する。
だが、かなり良い内容でも、書き方があまりにも読む気を削ぐようなら、ちょっとだけ読んで、サジを投げる。
読み進める体力がない。Too hard しんどい。

あるいは、難解すぎるものもNG、
何が言いたいのか、何を言っているのか、さっぱりわからないものもNG。
当たり前のことを当たり前に書かない作風は、わりと好き。
自分が興味あることしか読まない。
そして、究極は、自分に関わりがあるものしか読まない。
いたってわかりやすく、現実的。
だが、歴史や科学、自分には直接関係ないが、人間には間接的に関わっているから、脳が元気な時は読む。
さらさらと、すでに知識として知っていることの確認、答え合わせみたいなものか。
知らないことに出会うと、結構、脳は喜ぶ。
まだ脳はそれなりに生きているようだ。

互助会的なブログは敬遠する。
(会員同士がフォローし合うもの)
いいね!のポチは増えるかも知れないが、いずれ苦しくなってくる。
縛られないものが気楽で良い。
ただし、アクセス数は増えない。
あれもこれも、欲張るには、それだけの筆力や人気がないと無理。
中にはすごく文章力がある人もおられるが、所詮他人なので、山のように存在する達筆家の中に埋もれてしまう。
やはり、自分と何らかの接点、関わりがあるものに興味引かれる。
つい最近では、農作しておられる方とか、自然界で生きておられる方、昔流の暮らしをされている方、、、応援したくなる。
わたしには出来ないことだからだ。



ブログ依存症ではなく互助会

2022-10-08 | ブログ
ブログ村エッセイで見かけた、とあるブログ記事。
ブロガーさんの夫さんの「どうせブログなんて書いても誰も読まないのに」という、ぽろり発言。
これに、わたしに変な火が着いた。

以下は、あくまでも「わたし」に関して。
読んで欲しくて書くのではない。
書いた結果、それが読まれるのは悪くない。
読んで読んで。わたし、わたし、とアピールしたいわけではない。
さらに、複雑めんどくさいのは、書いたくせに読まれたくない、という場合もある。
なら、書いてもアップするなよ、ということになり、その摩訶不思議な心境は人にはわからないと思うが。
深情、情熱の発露の結果が、文章の山。
ダラダラでも良い。

書いて封印しているものもある。
実は隠し子のように、若かりし日に創設した別ブログがなんと、あと2つもある。
ほぼほぼ閲覧数は限りなくゼロに近い幽霊ブログなのだが。(誇張ではなく)
わたしがこの世を去る前に、指が動かなくなる前に、目が見えなくなる前に、消滅させておかねば。
ネット宇宙のゴミは早めに撤去すべきなのだが、、、。
パスワード的なものを探すのが面倒。
そのうち、そのうち、と、放置したまま。
ひょっとすると、また書き溜め用にキープしておくかも知れない。(が、時間的に、それはない)

何しろ、脳がおしゃべりなのだ。
ピーチクパーチクうるさくてしかたない。
これは次から次へと脳に浮かんだまま脳外に出してお掃除しないと、脳がパンクしてしまう。
ゴミ屋敷化してしまう。
だが、ゴミは行政の決めた時間、場所に出さないと、不法投棄は罪になる。
そもそもわたしは、そんなヘイトスピーチ的なものは、アウトプットしない常識ある社会人である。
というか、自分自身が不快になる。
暴力は嫌い。
アントニオ猪木は良い人だったとしても、わたしはプロレスやボクシングは好きになれない。
女の子的なものが好き。
お花だとか、お人形だとか、布、服、光り物、調度品、工芸品、綺麗な優美なものが好き。
美術(建造物、絵画含む)、芸術(音楽、ダンス含む)、映画も好き。
キレのある斬新なもの(テーマ、題材、切り口、空間、建造物)も刺激を受ける。
最近は、「自然」も好き。「大自然」なら大感動。
美しい自然の中に身を投じると幸福感に満たされる。
なので、プロレスとかは無縁なのだ。

とかとか、などなど、、、読む人のことなど全く眼中にないことを延々と脳内から流れるままに綴っている。
ではあるものの、自分が気持ちいいものだけを摘んでアウトプットしている。
とは言え、その日の気分、ノリによっては、マイナス感情、鬱憤を吐き出して、ストレスを発散している。
何かを通して、発散するプロセスは、プロセスやボクシングファンと共通しているかも知れない。

わたしの場合、脳内にある「不安事項」は、脳内にだけ留めることが多い。
書きたくなるような「不安事項」は、書く場合もある。
選択には法則やルールはなく、気分次第。
常に自分を冷静に見つめている自分と同時進行して生きている。
子供の時からである。

言語を自覚したのは、わたしが幼稚園ぐらいの時。
思ったことが、音や文字として現れずに脳内にどんどん流れるように出現する。
その時は、脳内だとは気づかず、知らず、もわっとした空中のような空気のようなものから現れた。
この感覚は、2番目孫が4歳ぐらい?の頃に、わたしに話してくれたことと似ている。
彼は、「K(自分のこと=僕)は、思っているけど言ってないだけ」と拙い言葉で口にしたが、わたしは彼の感覚を理解した。
言語とこうやって共に歩むんだ、成長していくのだ。
思うこと、考えること、感じること、それをアウトプットする人と、しない人、また、したくない人、出来ない人がいる。
アウトプットの方法も、いろんな手段、方法がある。
表情、動作、所作、行動。
行動にも、その場の瞬間的な行動と、中期、長期的な行動がある。
生理的、抑圧的、能動的、自発的、強制的、思考的、計画的、、、
暴力や人助け、芸術、、、幅広い。
また、意識した場合と無意識の場合がある。

意識すると、問題意識を持つようになると、考える、調べる、考察する。
たんなる興味の場合と、のっぴきならぬ避けて通れない場合がある。
マイナス方向とプラス方向がある。
自分の生きざまに伴い、興味や情熱の対象も変わってくる。

と、あーだこーだ、は、今、自分の脳内整理をしている。
仕分け作業。
わたしは、この仕分け作業が大好きなのだ。
と、話は逸れに逸れている。

話を元に戻す。
ブログ村エッセイのブロガーさんの夫さんが仰るところの、誰も読んでないブログを一生懸命書く、いわばブログ依存症は、はい、わたしです。何か?
ただし、ブログはほんの最近(15年前)始めたばかりで、書くことは、中学1年から。
アタマの中だけで言葉遊びは幼稚園児の時から。
それは単なるわたしの癖、性質、特徴であり、別に特技でもなんでもない。
趣味。
自分に小さな穴を開け空気を通して、自分を助ける杖のようなもの。
杖がスポーツの人もいるだろうし、芸術の人や、ものづくりの人もいるだろう。
人それぞれ。
そして、解釈も人それぞれ。

ああ、長かった。
だらだら書いて、楽しかった。
生産性はないが、わたしが救われたらそれでよし。
めでたし、めでたし。

※最後までお読みいただいた方、お疲れ様でした。
時間泥棒いたしました。すみません。



書き損じ

2022-10-05 | ブログ
あれからしばらく未公開記事をいくつか抱えている。
自意識過剰も甚だしい。
自意識過剰とは、、、「勘違い」「こだわり」「自分流美学」でもある。
気に入らない作品はガシャーンと叩き割って壊す、陶芸家のごとく。
(ちょっと欠けたりヒビが入った食器でも使っているわたしだが、、、最近は、口をつけるグラスなどは唇を切ったり指を切ったりするのはバカバカしいので、危なっかしいものは捨てる)

世界中の誰もが共鳴、賛同してくれなくても、存在を知られなくても、自分一人が洞窟の中で仏像を彫っていればそれでよし。
が、一人や二人、洞窟仲間がいるのも楽しいと思う。
洞窟アパートみたいなのがあって、一人一人が洞窟タイプの個別の部屋で仏像を彫っている。
何年かに一度、仏像展覧会があって、即売会も兼ねていたりして。
誰が買うの?
みんな自分で自分の仏像を彫っているから、人の仏像は欲しくない。
が、人の作品からヒントやインスピレーション、影響を受けるかも知れない。
自分の発想にはない着眼点がある。
これ、同人誌や、趣味、同志の会、ファンの集いに似ている?

精度、完成度、芸術性が高まると、バイヤーが現れるかも知れない。
あるいは、個展を開いたり、何度も入展するとスポンサーが現れたり。
権威ある日展とか。

芸術で身を立てるのは身を削る。
学校の音楽の先生や、美術の先生は、両方バランス良くやっている。
バランスが良いって、いろんな見方ができる。
市民生活も楽しいと思う。
わたしは芸術家ではないので。

生産性という側面で価値を察ると、ほとんどのことは、生産性がないとみなされる。
生産はモノだけではない。
大量生産、大量消費の時代は終わった。
余計なモノを作らない努力が必要か。

抽象的なことばかり書いている。
だってわたしにとって、「抽象」はラクだから。
のらりくらり逃げられる。
現実からの逃避。脳のお散歩。
他人の各自の抽象を突き詰めることは出来ない。
が、哲学的には出来るらしいが、辛気臭く面倒。
わたしは、すぐ眠くなる。

ちなみに、わたしが書き溜めた非公開記事、公開しないように思う。
その時の熱情はその時にしかないので、時間が経つと違和感を覚える。
肉湧き血が踊らない。
で、ボツとなる。
では、アップしている記事は、肉湧きに踊るスゴイものかというと、全くそんなことはない。
時間潰しには効力を発した。
自己満足度の高い暇つぶしが出来た。
その使い切った脳と時間の蝉の抜け殻が、記事。
噛んだ後のチューインガムみたいなもの?
たんに書くことが好きなだけなのだが。

今日の記事は、すこぶる面白くない。
でも自分の閉塞感ある流れを変えるために、アップしよう。
あ、今、書きたいことが具体的に頭にシャキーンと浮かんだ。
が、もう遅い、時間がない。
また今度。

※助走のみの記事にお付き合いいただき、申し訳ありません。


バズった?

2022-10-03 | ブログ
わたしのもう一つの趣味関係のブログ(日記)が、ミニミニミニミニバズった。
わははと笑うぐらいのミニミニミニぶりなので、「バズった」と入力する手が、あまりにも大袈裟で馬鹿騒ぎで震える。
小規模すぎて。

でも、わたしにしてみれば、バズったのだ。
いや、「バズった」はあまりにも違いすぎるので、書き方、表現を変えよう。
「いつもより閲覧数が、その記事だけぴょこんと増えた」
そんなかんじか。
「バズった」を改めてここで全面否定しよう。

で、別にバズったわけではないのだが、次の記事をアップできないでいる。
閲覧数が激減するのがわかりきっているからだ。
じつにくだらない心理状態。

いつも気楽に、気張らず力まず、適当にひょいひょいと短時間で好きなことを書いている。
中身なんか、たいしたことはない。薄い。
考えてない。こころに思い浮かぶまま。
(蝶ブログと同じスタンス)
反応があまりないと気楽に自分らしく楽しめるのではあるが、予想を超える反応があると自意識過剰になってしまう。
歩く時、右手と右足が同時に出るかんじか。
他のメンバーさんの、多い閲覧数の記事を見ても、なぜ多いのか全く理解出来ないものもあるし、これは大ヒット!と頷けるものもある。
人物自体に人気や影響力のある人の日記(記事)は、おもしろくなくてスカでも、閲覧数は多い。
更に、閲覧数が多くなってくると、釣られてて益々多くの人が見に来る。相乗効果。人集り。
一発屋や一過性のブームだったりすることもあるので、歌手のヒット曲や新人芸人の売れ方に共通するものがある。
わたしはプロではないので、気が軽い。背負うものやプレッシャーがない。
あるとすると、こだわりか。
わたしなりの美学。(ぷぷぷ)
一つや二つの失敗やバズり(恥ずかしげもなくまだ言ってる)は、自分のブログ人生を左右しない。
だから素人は大成しない。

だが、少し気になって、いつものように書けないのが難点。
ではあるものの、閲覧数が日頃の低調ぶりに戻れば、完成度や激減ぶりなど何の気にすることもなく、本来の自分モードで肩の力を抜いて書ける。
しばらくすると平時の何ごともなかったかのように日常になっている。 

さあ、また、くだらない独り言が書ける!
これ、けっこう楽しいのだ。



溢れる思い

2022-09-09 | ブログ
わたしのブログは、かなり前々から(そう、開設し始めた頃から)ずっと続けてお読みいただいている方だけにしか、わたしをご理解いただけないと思っている。 
(もちろん例外も)
開設して今月から16年目に突入している気長ブログなのだが。
理解といっても、賛同や共鳴、後押しではなく、こんな人がこんなことを考えてるんだな(けしからん)ぐらいで十分中の十分。
わたしの愚痴にお付き合いいただき本当に感謝している。
(お読みいただかなくても全然構わないです)
映画「幸せの黄色いハンカチ」の生存確認のような、ピンポイントの、細いピアノ線のような繋がりでわたしはとても満足している。
また、お互い、長い時間をかけて、その人を知ることの喜びを感じている。
大袈裟かも知れないが、人生の心の宝物になっている。

それはそうなのだが、複雑な思いもある。
快適で抜け感のある距離感を保つのはなかなか難しい。

個人ブログは、バーチャルではなく、リアル実体に繋がるツールである。
ほぼほぼ毎日長文のFacebookみたいなものだ。
架空のブログや、企業、団体のブログもあるが、作業しているのは人間。
仕事でやっている人もいる。
ロボットがやっていることもある。

さて。
話は中途半端に変わる。(わたしは、これが多い)
裕さんとブーツさんのリアルパリの話。興味深い。
日本にいても毎日、エッフェル塔にお目にかかる。
それは商品に使われるモチーフとしてのエッフェル塔。
ファッション、食品、雑貨、、、日常のありとあらゆるところで、エッフェル塔を目にする。
孫のTシャツだけでも、どれだけいっぱいエッフェル塔があるか。
クッキーの缶も、エッフェル塔、包装紙もエッフェル塔、、、。
パリ。わたしの身近な日本に置き換えると、KOBEブランド?
ファッションもさることながら、スイーツコーナーやお土産屋さんに行くと、必ず神戸の文字が目に入る。
イメージ戦略。
マンションの名前にまで神戸が使われている。
実際は行政管轄外で神戸に入らなくても。
人々のこころを惹きつける何かがあるのだろうけれど。
わたしはそのあたり、実際のリアル現実を知っているが、知らん顔。
生活者の目、裏の顔、そんなものはイメージ外。
固定概念の邪魔になる。
その逆もある。
悪いイメージが定着している、先入観の塊りのような場所、言葉、人物もある。
払拭するには長い時間がかかる。

良いイメージも悪いイメージも時間をかけて醸成されている。
イメージはイメージとして、現実は現実として、両方見る、両方知る、そして、自分の目ではどう見るか、感じるか。
これまた長い時間と考察が必要だ。
良い時も悪い時もある。
晴れの時も雨の時もある。
一長一短、表裏一体、どちらも真実。
どう調整して自分の中に取り込むか。

知らない幸せもある。

ちなみに、話はころっと変わる。(またか)
裕さんのブログで紹介していただいたが、わたしのブログカテゴリーでリアルパリがある。
内容はチャチなもので、わざわざ現地に行ってリアル報告するようなレベルのものではない。
ただただリアルタイムにインターネットで、チマチマiPodを使い細々悪戦苦闘しながらアップしたかった、当時のわたしがいる。
大きな理由はない。
ただ、行きたかっただけ。
だが、思いを行動に移すのには相当の時間とエネルギーと、背中を押すものが必要だった。
「ブログで散々行く行くって言ってるけど、あなた、いったいいつ行くの?」と、姉の一言で決めた。
そして、その日が将来の中で1番若かった。
インターネットは杖として使った。
だが、現地では携帯電話も固定電話も使えず、大きな不安に包まれた。
事故、災害、病気、、、何かあったらどうすればいい?
ではあるが、わたしの宝物になった。
あの年齢の自分はもう二度と再び戻らない。
20歳30歳50歳、この節目節目に一人旅をしたことは、かけがえない時間となっている。
70歳でまた行きたいかも。
ではあるが、エネルギー的にも心身的にも、国内のほうがゆったり楽しめる。
年齢の若い順に遠い所から行き、歳取るに従って近場が快適。
政治家の皆さんは高齢でもあちこち、日程をこなされてスゴイ。しかも公務。脱帽する。
と、いきなり、庶民目線から政治家へと話は飛び、相変わらず中間がない。
滑らかではないわたしの脳の特徴そのもののようだ。

ぺらぺら、まとめもなく、思いつくまま気の向くまま、幼児か超高齢者のごとく脳の中から言葉が溢れ出す。

あ、それから。
天寿を全うされたエリザベス女王、ご冥福をお祈りします。
またまた話しがテッペンに上がった。
だが、何の関わりもないわたしではあるが、わたしにとってはこころに被さる重みのある事象である。





ブログにかける思い

2022-07-29 | ブログ
わたし。
淡々黙々と好きなことだけを綴っている。
〆切や、お題ちょうだいも無し。
ああ、なんて楽で自由で開放的なの〜〜、ではあるが、その一方で評価は無し。
元々評価など皆目求めていないので、わたしの魂が救われたら目的は達成される。
そのついでに、お立ち寄りいただく方がおられたらもうそれで十分。
お釣りが来る。

ちなみに、、、
gooブログユーザー向けの「アピールチャンス」というものがあり、自薦のブログ記事がアップされる。
気分が向くと他のブログを拝読することがある。
全く今まで読んだことがない未知のブログで、興味を惹かれた記事があると、他の記事に遡って読んでみる。
その中に、80歳手前の主婦(未亡人のよう)の方のブログが目に止まった。
美しい言葉使い、室内の美しい設え、食器、ゴージャスなメニュー。
昔はこういうブログに度々お目にかかったことがあるが、最近はとんとご無沙汰。
なぜだろう?

たぶん、、、
わたし自身、その理由を推測するには、、、
①興味がなくなった。
②家庭のゴージャスブログには頑張りを見せるための嘘っぽいものも含まれ、ブログのための豪華な生活という、本末転倒になることがある。
いちいち、写真を撮るのは手間もかかる。
主役は自分のつもりが、いつのまにか振り回されていることになる。
そういう「ブログ第一主義」は、わたしは卒業した感がある。
③最近はブログは下火で流行遅れらしく、今一歩、活気がないように感じる。

まあ世間がどうであろうが、自分第一主義のわたしは、一向にお構い無しなのだが。

と、話しは脱線。
話を戻す。 
初めてお目にかかったブログに、興味を持った。

ぱらぱらとページをめくり、過去記事に遡ると、、、
かつて、ブロガーさん同士のトラブルがあったようだ。
こんな素晴らしいブログを書かれるブロガーさんなのに、いったいどんなトラブルがあったのだろうと、興味津々。
コメントを巡ってのトラブルだった。
しかもかなり深刻で長期に渡り尾を引くものだった。

わたしはかつての自分のブログのトラブルを思い出した。
あった、あった、そう言えばあったなあ、、、
コメントは恐ろしい。両刃を持つ。

しかも通りすがりの人ならまだしも、そうでない場合、、、。
暗闇、暗黒のホールに引っ張り込まれそうになった。
すごい負のエネルギー。
世の中にはそういう人が潜んでいる。
たまたまブログで接する機会があり、わたしは震え上がった。
一目散に全速力で逃げた。
君子危うきに近寄らず。

こりゃマズイと思うと飛び退く。
マイナスのものに巻き込まれても、何のメリットも得るものもない。
関わりを避ける。
そのあたり、わたしは逃げ足が結構速い。
防衛本能が無意識に働くのだろう。

独特のネチっこさ、執念深さ、底なしのスゴい吸引力を感じる。
引っ張られる力に抵抗して、その人物から必死で逃げる。
そのためには、その場を離れること、関わりを断つことが大事。
追っかけてきたとしても、相手にしない。
スルーを徹底する。

そんな根性無しのスルー人間には、相手にしてみると、手応えもなく、つまらなく面白くないし、取っ掛かりもないので、いつまでも追ってこない。
スルーの仕方によっては相手の逆鱗に触れることもあるので要注意。
へんに刺激してはいけない。
一瞬にして透明人間になって自分を姿とともに外側も中側も消す。
あれ?どこ行った?と、探されないように、あくまでも相手を刺激せず、消えていくのがよいと思う。
相手と同じ土俵に立たないこと。
仕返ししたり復讐したりしようなんて絶対に思わないこと。
株やファンドでいうところの、損切りをする。
赤字店舗の撤退のようなもの。

そうやって、自分に害があるとみなすと、わたしは逃げる。
モタモタして逃げ遅れたりすると大変な痛手を被る。


ちなみに。
ブログを通してお知り合いになった方々。
わたしは社交性がないので、人数はかなり少ないが、大切な人々となっている。
15年の間に本当に数えるほど。
かつてやり取りがあった方でも、その後、全く音信不通という人もいる。
いきなり長い空白をぽーんと飛ばして、コメントをくださる方もいる。
そういうほのぼのした暖かい繋がりとはまた別に、そうではない事故ニアミス接触に近い、偶然のその場限りの関わりがある人もいる。

今は楽しく落ち着いたブログ生活を送っている。
アピールチャンスで見かけたブロガーさんのようなことはない。
トータルすると、ブログにかなりの情熱や時間はかけるものの、洗顔や歯磨き程度の、日常のほぼ習慣みたいな軽いものになっている。
が、中学生の時から日記は書き続けていて、息抜きとストレス解消になっている。

わたしの大切な話し相手は、自分なのだ。
念仏や写経のようなもので、自分のこころを鎮め、落ち着ける精神状態を生み出している。
そして、ぷぷっと笑ったりして、わたしを笑わせる、わたし。
一人芝居か。ヒマジン。
が、人に迷惑かけずに、自分が楽しければそれでよし。
冒頭にも書いたように、それを読んでくださる方がいるのであれば、十二分すぎる。









励まされたり褒められたり

2022-07-13 | ブログ
自分の過去ブログ記事に励まされる。
どなたかが引っ張り出して読んで下さった11年半前の記事。
まだまだ頑張ってたなあ、、、わたし。

現在の自分が、過去の自分に励まされるなんて、想像もせず、当時はただただその時の思いを書き殴っていた。
そんな内容に励まされる現在のわたしって、どんな状況?

自分にさえ、移り変わりがある。
まして、時代や人は変化して当たり前。
あの時は良かったなあ、、、という懐古主義や比較ではなく、励まされるって、どういうこと?
頑張れよ!と、過去のわたしは、今のわたしに言ってくれている?

ふーん、、、ふーむ、、、
過去のわたしと、現在のわたしは仲良しなのだ。
ということは、未来のわたしとも、きっと仲良しだろう。

あるがままを受け入れる、、、あるがままの中にも、自分はこうなりたい、という理想や意志がある。芯がある。
それに向かって、無意識なりにも歩いていたのかな、、、と。

そうすると、10年後の自分は、今のわたしを誉めてくれるかも知れない。
たまには、褒められるようなことを頑張って行うのも良い。
自分が自分を褒めてくれる、って、じわぁっと幸せだ。

またまた毒にも薬にもならないことを書いている。



推薦教科書のようなブログ

2022-06-18 | ブログ
同世代の女性のブログをたまたま読んだ。
丁寧で地に足が着いた、とても堅実な暮らしをされている。
毎夕飯の写真をアップされ、全て手作り。
食事以外の家族のことや日常生活も百点満点。
参考になる。
わたしには真似できない。
仮に真似しようとしても、一日坊主。
この違いは何か。
キャラクターの違いである。

じつに考え方もしっかりしておられ、ふむふむと諭されたり役に立ったり。
同世代ならではの共通点もある。
が、真逆ポイントが大きくドカンとある。
わたしは、手抜き人生。
彼女は真面目人生。
なので、見習うべき教科書になる。

人には人の人生があり、羨ましいかというと羨ましくはない。
比べるものではない。
彼女の記事にもあったが、羨ましく思う時は、自分のこころが疲れている時なんだそうだ。
ふむふむ、メモメモ。

お互い、無いものを持っていると思われる。
まあそれはそれ。
わたしは真面目な常識人が好きなので、彼女のブログは安心して読める。
ちょっと離れたところの先輩、といったかんじか。
ただし、彼女のほうが、わたしより3歳下。

わたしは、破茶滅茶な人が好きかどうかというと、そんなことはない。
個性的な尖っている、鋭利な感性も斬れ味鋭く快感だが、それはあくまでもアクセント的に味を効かせるため。
基本的には安定した骨太の平凡な人が好き。
冒険は人にしてもらって刺激のお裾分けをいただき、自分は安心、安全なコースを行く。
安心コースはドキドキハラハラしないので、破茶滅茶な人のテイストは、そのための活性剤として。
アドレナリンは常時、出す必要がない。

ということで、トンガリさんは刺激剤として、マジメさんは精神安定剤として、枕元に置く。(スマホの中)

超絶マジメさんは、拍手喝采。
ただし、ずっとだと、しんどい。
トンガリさんも、ずっとだと壊れる。
自分の症状に応じてビタミン剤を使い分ける。
あくまでもビタミン剤である。サプリメント。

本当のクスリは、身近にありすぎて、毒にもクスリにもなる。
成果としては、たいして目を見張るほどでもない漢方薬あたりがよろしいかと。
マジメさんが言っていることは力がある。
だが、トンガリさんの、突拍子もない発言は、意外に効果がある。
一筋縄ではいかないことや、理屈ではどうしようもないことなどに、突破口を開けることもある。
研究などでは、こういうことがキッカケになる場合があるようだが、日頃の積み重ね、努力の後に発揮すると、わたしは思っている。
基礎なし、下積みなしにいきなり光を浴びると、後が大変。
先は長いので。

過去の栄光だけで生きている人もいるが、それはそれで素晴らしい。
一生、1μも栄光とは縁がない人がどれだけ多いか。
自分の栄光を糧に生きてどこが悪い?
なので、わたしは自慢タレの人の話を苦痛でもなんでもなく聞くことができる。
これは、特技の範疇に入るだろう。
また逆に、愚痴をこぼされるのも苦痛ではない。
わたしの脳が緩んでいるだけかも知れない。





不具合の、ぼやき

2022-06-10 | ブログ
ブログ村さま、蝶ブログを更新してもリンクされません。

ここのところ、連続。前にもそういうことがあった。
不具合。
一応、わたしはgooは有料会員ではあるものの、ブログ村は無料なので、発言権はないと弱々しく思っている。
こうやって、次の記事を更新した頃に、前の記事と同時に、ブログ村の自分の記事コーナーに、お目見えとなる。
これがいつもの流れ。
どこかで、記事が渋滞しているのだろう。
詰まって出てこないかんじ。

試しにこの記事をアップしてみる。
2つ、記事が同時に現れてくることだろう。
超個人的に、結構、気になる。
単なるシステム不具合なんだけど。

と、2つ目をアップしたものの、まだ不具合は続き、ブログ村に反映されない。
今回は長い、、、。