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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

薄雲

2013年11月25日 | 源氏物語


入日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖に色やまがえる 光源氏

源氏物語の19帖は「薄雲」である。藤壺の女院が37歳で亡くなる。桐壺帝の后であった藤壺と道ならぬ恋に落ち、帝が知らない冷泉亭を設けた光源氏には誰に打ち明けることもできない深い悲しみであった。入日さす峰とは西方の山であるが、「西方浄土」への連想が詠まれている。光源氏にとって西の夕日とそこへたなびいている薄雲は、藤壺の逝去を表している。雲の色が、身に纏う喪服の薄鈍色、つまり薄墨色とまごうばかりだと、人知れず感慨を述べているのだ。

あらためてこの歌の意を書いてみる。

入日のさしている峰に棚曳いている薄雲は、悲しみに暮れている私の、喪服の袖の薄鈍色にあやかって、同じような色にみせているのだろうか。

藤壺の光源氏への最後の言葉が、息もたえだえになったか細い声で語られる。「故院の遺言どおりに、帝の御補佐をなさり、御後見をして下さいます御厚意は、長年の間度々身にしみて感謝申し上げております。どうした折に、並々でない感謝の意を伝えていいのかと、そのことばかりを考えていたのですが、もう今となってはそれも叶わず、かえすがえす残念で」
と取次ぎの女房に仰せになっているのが聞こえてくる。

太政大臣に続き、藤壺の死。こんなまがごとが起きるのは、帝の出生を秘密にしているためだと考えた夜居の僧が、冷泉亭にその秘密を明かす。これは、物語のクライマックスともいえる出来事である。冷泉亭は自らの退位を光源氏にほのめかした。
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夕映え

2013年11月24日 | 日記


夕暮れが近づき空が赤みを増すと家が恋しくなる。小春日和なら野も山も家も人も大地一面が赤く映える美しい一瞬がある。カメラで風景を頻繁に撮るようになって、そうした一瞬はほんのわずかで、すぐ移ろっていく感じが強くする。太陽が真上からではなく斜めから差し込んでくるので、赤みがより強く感じるのかもしれない。

夕焼けの大きな山に迎えられ 及川  貞

秋は釣る瓶落しで、たちまち夕闇が迫ってくる。子供のころ、家の畑の収穫を手伝って夜なべをした。兄弟が揃って乾燥した牧草を牛舎の二階に納める。暗がりのなかで助け合って作業するのが不思議に楽しかった。作業が終わると父はわずかばかりの小遣いを手渡した。土と向かいあう重労働とは違って、収穫の夜なべは農家がわずかにほっとする季節である。

「母さんが夜なべをして手袋編んでくれた」という唱歌を歌うと、なにかやるせない気持ちにさせられた。手袋は買ってきたものではなく、いつも手編みであった。厳しい冬は古いセーターなどから糸を取って手袋を編んでもらう。それを手にすると、冬の寒さにも耐えられるような気がした。

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藪の中

2013年11月23日 | 登山


上山、不平山。標高1006m、登山道のない山は深い藪に覆われている。伐採した広葉樹林の根方から、背丈をこえるブッシュだ。手で掻き分けながら進むが、いく手のブッシュは深さを増すばかりである。枯れた楢の立ち木にムキタケが出ている。ブッシュの深さに、足を取られ前進が極端に遅くなる。キノコを取りの方が面白くなり、前進の時間が遅くなったので登頂を断念する。登山道のない山行きは、今後は難しい。

ふと、芥川龍之介の『藪の中』を思い出す。人跡のない藪に入って、芥川の書いた藪の中とは趣も違い、人目のない深い山のなかに異界を感じる。幸い風もなく日差しがあるので、さほどの恐怖感はないが、藪の中は日常の生活にない雰囲気に満ちている。どこか普段は感じられない不安とその反対の落ち着ける空気がここにはあるのだ。それは故郷の自然に抱かれる時に感じるやすらぎとその反対の喪失感が交じりあったあの感覚に似ている。

芥川の『藪の中』では、妻を連れて旅をする男が、藪の中で殺されるという悲惨な事件が起きる。だが事件を語る当事者の口から出る言葉は、どれも違った状況が説明される。誰の説明が正しいのか、どうにも証明のしようがない。「藪の中」という密閉された空間で起きた事件は、解明されないまま小説は終わる。

「ただ、胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。この山陰の藪の空には、小鳥一羽囀りに来ない。ただ杉や竹の杪に、寂しい日影が漂っている。日陰が、---それも次第に薄れて来る。---もう杉や竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。」

殺された妻の夫は巫女の口を借りて、死んだときの様子をこんな風に話した。不平山の藪もまた深い静かさに包まれ、一緒に登った仲間に話し声だけが響いた。その声は何を語ったか、少しもその意味に注意を向けることはなかった。
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ケネディ大統領の乗った車

2013年11月22日 | 日記


きょうは、二十四節気の小雪である。寒波が来ると雪が降ってくるが大雪にはならない、そんな季節である。つい一月前は、暑いということの方が多かったがほんの短時日で様変わりである。生活の意識はすべて防寒へと向いている。食べ物は温かい鍋物が欲しくなるし、温泉のありがたみは何ものにも変えがたい。

このほどJ・F・ケネディ35代アメリカ大統領の娘キャロラインが日本大使に就任し、国民の大きな関心を集めている。テキサス州ダラスでオープンカーに乗ったケネディ大統領が射殺されたのは、1963年11月22日のことである。この日、日本のテレビは衛星放送を初めて電波に乗せた日であった。アメリカの電波が衛星に乗って日本の家庭に初めて届いた。その一番初めに飛び込んできたのが、大統領暗殺という信じられないできごとであった。

日本の国民は初の衛星による電波の受信と、世紀の大事件をダイレクトに映像でみるという奇跡に遭遇した。ケネディがアメリカ国民から高い信任を受けた大統領であったことに加え、この報道に接したほとんどの国民にとって忘れがたい日となった。

大統領が乗った車はリンカーン・コンチネンタルの特別仕様車である。運転手のほかボディ・ガードが前席に2名車体の後ろに取り付けられた踏み台に2名、後部座席に大統領夫妻の7人乗りであった。この後部座席は群集に大統領が手を振って応えるときはボタンひとつで35センチせり上げることができた。この日は11月なのにダラスは暑く、オープンカーの幌を開けて走行していた。屋根には完全防弾ガラスが取り付けられ、ボタンで4方向から屋根を蓋い、すべての座席が防護することができる使用であった。

ネットは膨大な情報を蓄積している。このパソコンからもクリックひとつで歴史的な文書にアクセスできる。ケネディ大統領の就任演説の全文をダウンロードした。その最後のフレーズは

And so,my fellow Americans:ask not what your country -ask what you can do your
country.My fellow citizens of the world ask not what America will do for you,
but what together we can do for the freedom of man.

となっている。


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一休

2013年11月21日 | 


一休と言えば、すぐに「一休とんち噺」を思い出す。昔はこれがテレビのアニメにもなって、そのキャラが味噌のコマーシャルになったこともあった。一休は文明13年(1481)11月21日に没した。一休が生まれた1394年は室町時代、後小松天皇、足利義満将軍の時代である。出自は後小松天皇の落胤であるということが伝えられている。

6歳で出家、22歳のとき終生の師である京都大徳寺の高僧、華叟宗曇の門へ入った。宗曇は枯淡の禅僧で、大徳寺の庵はみすぼらしく、何も無い状態で食べ物さえ事欠く有様であった。そのなかで3年間じっと宗曇に仕え、ひたすら禅を学び続けた。ある日師は宗純に「洞山三頓の棒」という公案を出した。これに宗純は「有漏路 無漏路 一休み 雨降れば降れ 風吹けば吹け」と答えた。有漏路とは迷いの世界、無漏路とは悟りの世界を指している。人生とは煩悩の世界から悟りの世界へ往く一休みのようなもの。雨が降ろうが、風が吹こうが関係ないという意味だ。華叟宗曇はこの答案を良しとし、宗純に一休の号を与えた。このときから一休宗純を名のるようになった。

一休は大徳寺の住持として迎えられたが、この寺に住むことはなく放浪の生活を送った。剃髪せず髭も剃らなかった。着ている袈裟はぼろぼろ、手には朱鞘を佩いた木刀を持ち、「今の僧はこんなもんじゃ。見た目には飾っているが、中身は用立たずの木刀よ」と、厳しい批判をくり返した。自身が男色や女色に浸っていることを隠そうともせず、晩年には森侍者という側女に身辺の世話をさせた。江戸時代、説話のモデルとして一休噺に登場した。小僧の一休が知恵を出して難問を解決する噺は人気を呼んだ。

日本詩吟学院の教本には一休宗純の漢詩「客中」が入っている。この詩を放浪中の一休心中を詠んだものとしてみればその味わいは更に深くなる。風さえ吹いた跡を、白雲に残していくのに、一休の放浪はその跡さえ留めることはない。古寺の鐘の音が聞こえているばかりだ。

吟髪霜白衰容を奈んせん

風は過ぐるも浮雲一片の縦あり

識らず今宵何れの処にか宿せん

一声あり古寺暮楼の鐘
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