今朝早く、2020年東京オリンピック招致が、ベエノスアイレスで開かれたIOC総会で決定した。テレビの報道では、日本中が喜びに湧いているように見える。この先の7年、世界でどんなことが起きるかだろか、誰にもわからない。自分自身がその時健康で今のような生活を送っているのか、それもわからない。ただ言えることは、一日一日を大事に生きていくことが大切だということだ。
先日、百人一首に、蝉丸という盲目の歌人の歌が収録されているという記事を書いたが、謡曲に「蝉丸」があったことを思い出した。ここでは、蝉丸は延喜第四の御子として登場する。天皇の子に生まれながら、蝉丸は生まれながらの盲人であった。皇室に盲人の子がいることを憂慮した天皇は、蝉丸を逢坂山に捨てるように命じる。謡曲では、逢坂山に捨てられた蝉丸は、藁屋に住んで子供のころから親しんだ琵琶を弾きながら暮した。
ここに現われるののが、蝉丸の姉の逆髪である。この第三の御子も狂人として生まれ、髪は逆立って異形の風体であった。姉もまた皇室を追われ、諸国を放浪するうちに、逢坂山で兄弟が再会することになる。
蝉丸 なう逆髪とは、姉宮かと、驚き藁屋の戸を開くれば
逆髪 さも浅ましきおん有様、
蝉丸 たがひに手に手を取りかはし、
逆髪 弟の宮か、
蝉丸 姉宮かと、
こうして兄弟は再会して、兄弟の境遇をお互いに思いやるが、ほどなく二人には離別の時が訪れる。蝉丸は逢坂山へ連れてきた清貫との離別に続いて、姉とも離別しなければならない。
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
そうした伝説から見ると、この別離の歌は特別の意味が隠されている。言葉の韻律とリズムによって状況を表現する手法は、当時の和歌に世界に新鮮な響きを与えた。定家がこの歌を百人一首に収録した理由もここにある。蝉丸は別離をわが身の悲惨とのみ考えたのではなく、前世に不都合な生き方をしたことによるとの諦観がこの歌には隠されている。