志田周子
2013年09月13日 | 人

志田周子が生まれた大井沢に行ったのは昨年の11月16日である。目指す大井沢峠は、すでに紅葉も終わり、山に何度目かの雪が降っていた。この峠道の沢筋で、天然のナメコが面白いように見つかった。
大井沢は南に大朝日岳、鳥原山などの朝日連峰、北に月山、湯殿山を臨む山に囲まれた山村である。周子は大井沢小学校を卒業後、山形第一高女(現山形西高)を経て、東京女子医専に進んで女医となった。大井沢では初めての女学生であり、一番星であった。
父荘次郎は教員であり、周子の母校でも教えていたが、後年に大井沢村の村長に選ばれた。村での有力者であった。父は村に医師がいないことを嘆き、村に医師を呼ぶことを悲願としていた。とくに冬季に雪に降り込められた村に急患が出ると、橇を馬に引かせ患者を医者のいる大江町まで峠を越えて運ばなければならなかった。村民のために是が非でも医師をと考えていた。
荘次郎は、東京女子医専の小児科教室に勤めていた周子に、村に帰って医師として働くように懇願した。村の診療所に医師が見つかるまで、3年でいいからと。父の願いを知って上京した周子は、父の願いを断り切れなかった。医師として経験も充分に積んでいないが、自分が村に役にたつのであれば。東京に未練を残して、周子は大井沢に帰った。
山桜の蕾わづかに膨らみし峡に青葉の便とどきぬ 志田周子
周子が和歌をつくり始めたのは昭和20年のころである。結城哀草果の指導を受けた。哀草果は斉藤茂吉の一番弟子であるから、周子は孫弟子ということになる。茂吉が医師の傍ら作歌生活を続けていたから、そこにある縁を感じる。
志田周子の生涯を演劇にする企画があった。この演劇のクライマックスは、患者を馬橇に乗せて雪の峠道を運ぶ場面であった。診療所に医師が来るまで、という父の言葉はむなしくいつまでも雪深い大井沢へ赴任してくる医師は見つからなかった。村で唯一人の医師とて、周子はこの村を見捨てることはできなかった。
雪山にオリオン星座かかるを見つつ患家に急ぐ雪路を踏みて 周子
大井沢に建つ周子の歌碑である。生涯結婚することもなく、昭和37年食堂癌のため仙台の病院に入院したまま帰らぬ人となった。