常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

死にたまふ母

2012年05月24日 | 日記


大正2年5月23日、上山市金瓶の農家で親族や近隣の人々に見守られて、一人の農婦が死んだ。アララギ派の歌人、斉藤茂吉の実母いくである。山形と上山の境界のようなこの村に生まれ、妻となり5人の子を育てながら、農業にその生涯を捧げた。

茂吉の父が45kほどの小男であったのに対して、母いくは68kの女丈夫であった。いわゆる蚤の夫婦である。父は歌に踊りにたけていたが、いくは歌も踊りもせず、口数も少なく、めったに家を出ず、養蚕や畑仕事に精を出す働き者であった。

いくは時々塩断ちをした。子どもたちがなぜそんなことをするのか聞くと、「お前たちが丈夫に育ち、利巧で偉い人間になるのを願ってだ」と言葉少なく答えた。結膜炎で目が充血して痛くなるのを、この地方では「やん目」といった。茂吉がやん目に罹ると、いくは村はずれの不動尊に連れて行った。

不動尊は不動沢に祀ってあり、岩を伝ってきれいな水が滝になって落ちていた。そこで母と子は目が早く直るように不動尊に祈願礼拝した。いくは滝の水で茂吉の目を幾度も幾度も洗うのであった。

オダマキが可憐に咲き、田植が済んだ田には蛙の鳴き声がこだましていた。村が一番美しい季節に、いくは逝った。59歳であった。その時、斉藤茂吉はまだ31歳、大学を出たてのころであった。いくの死は、茂吉に大きな衝撃を与えたことであろう。

斉藤茂吉は第一歌集「赤光」に「死にたまふ母」と題する連作挽歌を発表し、その死を悼んだ。その歌には母を亡くした子の真実があふれ、読むものに感動を与える。

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる

死に近き母が目に寄りをだまきの花咲きたりといひにけるかな

我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ

のど赤玄鳥ふたつ梁にいて垂乳根の母は死にたまふなり

「死にたまふ母」は59首に及ぶ連作挽歌であり、斉藤茂吉の母を思う心の叫びであった。



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ニンニク

2012年05月24日 | 農作業


畑のニンニクがもうひと月ほどで収穫期を迎える。昨年秋に植えたのだが、肥料不足でやや樹勢が弱い気がするが、はじめての栽培にしてはまあまあである。ニンニクを植えた動機は、市販のニンニクが余りに高価だからだ。中国産のものに信頼が置けないので、一昨年くらいから、栽培している農家から直接買っていた。

そのニンニクを栽培した人も農家だが、ニンニク専門というわけでなく、野菜畑に植えたものを分けて貰った。これは価格も安く、1キロ600円ほどで手に入った。畑を借りて野菜づくりをはじめたので、自分で作ればどんなものか、もうすぐ結果が出る。

抗酸化物質は、がんなどの病気を防ぎ、老化を遅らせてくれる食品成分として注目を集めている。ニンニクには少なくとも15種類以上の抗酸化作用を持った植物栄養素が含まれている
といわれている。それ以外にニンニクから200を越える成分が見つかっていて、ドイツではニンニクが動脈硬化の予防・治療薬として認可されている。

ニンニクの効果には

1高血圧を改善する

2コレステロールと中性脂肪を減らす

3血小板の凝集を抑えて血液の粘度を下げ、血液の流れをよくし、血栓を防ぐ

ニンニクはつぶすとアリシンからアホエンという物質を多くつくりだす。アホエンには、強い抗血栓作用があり脳卒中と心臓発作のリスクを下げ、血液の流れをよくしてくれる。

トマトのような酸味のある食品と一緒にソテーするとアホエンの量はさらに増す。野菜スープの傑作であるミネストローネは、ニンニクの食べ方のひとつの理想である。



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小満

2012年05月23日 | 日記


一年でもっとも緑の豊かな季節。花が咲き、麦が実る。小満は24節気第八、言葉の感じも好ましいいちばん好きな節気だ。5月21日から6月5日がこれにあたる。万物に生気があふれ、草木が茂ることから、小満という。以前、自動車のコマーシャルに美しい日本として小満がテーマで放映されたことがある。そのとき写された花はアジサイであった。

この美しい季節は、震災の街にも、戦争で荒廃した街にもひとしく訪れる。

国破れて山河あり 城春にして草木深し

時に感じては花にも涙をそそぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす

と大乱で破壊された長安に春の訪れを詠んだのは、唐の詩人杜甫である。人の世の転変に比べて、自然の山や川は何の変化もないばかりか、破壊の跡はその美しさを際立たせる。人はその自然をみたとき、深い悲しみを抱く。

空襲にみまわれ、そんな自然の美しさを顧みるゆとりのない二人の男女がいた。昭和20年5月24日の夜、空襲で難にあい、命を救われて東京銀座尾張町の数寄屋橋の畔に安堵の息を吐いたのは、氏家真知子と恩人の後宮春樹である。

お互いの名も知らぬ二人は会話を交わした。
「これから先いつまで戦争が続くかしれないけれど・・・もし半年たってお互い生きていたら・・・これからあとちょうど半年目の夜・・・11月の24日だ・・・もう一度ここで会わないか!ねえ、きみ・・・」と恩人の青年が言った。自然に二人は握手をして別れようとしたが「あ、そうだ肝心なことを」焼夷弾に煤けた顔をほころばせて「君の名は?」と青年は聞いた。真知子は口ごもって「必ず来るわ・・・決して死なないわ・・・必ず生きのびて11月24日な晩8時ね・・・」と言って名前を告げずに別れた。

半年後、青年は数寄屋橋の畔に立ったが、真知子の姿は見えなかった。昭和29年、日本中の人をラジオの前に釘付けにした連続放送劇「君の名は」である。「すれ違い」がこのドラマの肝になっている。心なかで思いあっている二人が、様々な事情で会うことができない悲恋。「君の名はと たずねし人あり その人の 名も知らず 今日砂山に ただひとりきて 浜昼顔に きいてみる」の主題歌は、いまも懐かしく耳の底に響いている。

それは、小満の季節であった。敗戦を迎えた日本人に、杜甫の詩が響いた。だが、自分自身の心に聞いてみて、戦後の人生の歩みのなかで杜甫の悲しみをどれほどかみしめていたか、はなはだ疑問である。季節を見る目、生きることの意味をもう一度問いなおしてみたい。





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金環日食

2012年05月22日 | 日記


きのう午前7時35分ころ、関東など太平洋側で、金環日食が観測された。
金環日食は太陽と月、地球が一直線に並び、地上で太陽を見ると、金色の輪にに見える現象である。テレビでも大きく取り上げられ、さながら日本中に開演された天体ショーであった。次に日本で見られる金環日食は18年後の北海道だという。

太陽や月、星などの空を仰ぐと目に入る天体は、古い歴史の時代からの関心事であった。5世紀中国・梁の武帝は教養高い学者で、文治を国家統治の根本に据えた。王子たちに書の王義之の筆跡から重複しない千字を選んで模写させて学ばせたが、この文字を暗記しやすい韻文にさせたのが「千字文」である。以後書の手本として中国の子どもたちに親しまれてきた。

日月盈昃(じつげつえいしょく)

辰宿列張(しんしゅうれつちょう)

千字文にある天体について述べた対句である。意味は1句、太陽は中に昇れば傾き、月は満つれば欠けることを繰り返しながらいつまでも盛衰を続ける。2句、星は北極星を中心に満天の星座が連なって不変の運行を続ける。この天体の不変性は、国の統治の不変とも結ばれ、これから外れることは不吉とされて戒められた。

人間の運、不運についてもこの言葉は教えている。つまり、運がよかったとしても何時までも続くものでないので、甘んずることなく努め、また不運にあっても打ちひしがれることなく、人間として正しい道を歩めばやがて吉がくるであろう。

日本へは奈良時代に遣唐使や百済との交易で論語とともにもたらされ、広く書の手本として書き継がれてきた。江戸時代に至っても、四書五経を暗記して教養を身につけてきた武士にも、天体についてのこのような考えは及んでいた。

江戸後期の儒者、塩谷宕陰は山形藩主として入部した水野忠清の補導役として山形に滞在した時の詩が残されている。

龍峯東首を占め

左右連嶂横たわる

西南百のしぎは

高低互いに兄弟たり

蜿蟺として北に向かいて走り

月嶽之がたり

恰も星宿の纏わりて

燦然として天営を守るが如し

宕陰は山形の山並みが東に龍山がその主峰となり、東南では月山を盟主とする山々が山形城を取り巻いている地形を、天空の星座がまつわって北極星を守っている様に例えて表現している。

天体の運行は地形に反映され、城を取り巻く人々は、星座に連なる星たちに見立てられている。この不変性は、日食という現象によって消されるものではなかった。
8時近くなって、太陽の明るさがしだいに薄れ、心なしか風が冷たく感じられた。天体の神秘のなかで、人間は様々に生きつづける。



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三方倉山

2012年05月20日 | 日記


久しぶりの晴天。
宮城県二口山塊、三方倉山に登る。三角錐の秀麗な山容であるが、麓からの傾斜は見るからにきつそうだ。対面には磐司岩の異形な姿がうずくまり、その向こうに大東岳のげん骨を握ったような頂上が見えている。

きのうの雨で新緑は濃くなっているが、1000m近くあるこの山の上の方は新芽が吹き出したばかりで、薄緑が日に光っている。どっぷりと新緑に浸かっていたい、きょうはそんな気分だ。そして、できるなら頂上付近に咲く白ヤシオツツジを見たい。



詩人、尾崎喜八の山行はこんな風であった。
「咲きはじめた山吹やひとりしずか、小径の岩に鳴る靴の音。もうずっと下になった渓谷がかすかにさらさらと早瀬の歌をうたっている。そして楽しい大きな明暗に浸った朝の山々は、空間を占める莫大な容積の重なり合いと大らかな面の移り行きとで、それを見る目を休ませ、その安定感で人の心をやわらげる。」

「彼は行く。ゆっくりと。しかし物見高い目や鼻や耳はすっかり開放しながら。山を歩くことは彼にとって、自然の全体と細部とをできるだけ見、愛しかつ理解することであって、決して急用を帯びた人のように力走することではないからである。



私たちの山歩きも尾崎喜八のようであるが、体力の消耗との戦いという側面を持っていることも現実だ。標高500m過ぎたあたりで同行のsさんが調子を崩し、登頂をあきらめ下山、残る3名が頂上を目指した。

標高600mを過ぎると傾斜は更に急になり、登山道はつづれ折になっている。
ところどころに、シラネアオイの紫の花が風にゆれて咲いている。しかし、期待した白ヤシオは、蕾ばかりで花を見せない。



麓の駐車場で確認したが、この山への入山者は少ない。それでも、登りで、3人ほどの登山客に出会う。向かいの大東岳は、かなりの人数が登ったようだ。
稜線へ辿りつくと、向こうに蔵王の山々、青麻山の双耳も展望できる。
頂上は11時。10分ほど記念撮影をしてsさんの待つブナ平へ下る。



データ 登山開始8;09 400m地点8;32 600m地点10;00 800m地点10;43 頂上11;00 750m地点11;16 550msさんと合流12;18 昼食 12;43まで 下山13:13
総距離4.6km。
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