常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

三里四方の野菜を食べろ

2012年05月30日 | 農作業
食べ物に関することわざは、たくさんある。サツマイモが根付き、小松菜や山東菜は疎抜きされるのを待っている。野菜を作りながら、『食物ことわざ事典』(平野雅章)をひもといて見るのもたのしい。

家庭菜園をやってみて一番感じるのは、取立ての野菜は味が違うことだ。収穫した野菜を半日もおくと、味はたちまち落ちてしまう。スーパーに並んでいる野菜は、収穫して店頭に出るまで少なくても2日はかかる。子どもにこんな野菜ばかり食べさせていては、野菜嫌いの子になるのは必定だ。

このことわざわは京都で言われたもののようで、「三里四方の野菜を食べていれば、長寿延命疑いなし」というのを摘めたものである。三里四方の農家なら、朝取りの新鮮な野菜を京都の消費地へ運んで行ける。鮮度のよい、ミネラルたっぷりの野菜が提供できるわけだ。

ところが最近の野菜は、遠く離れた大生産地から、消費地へ運ばれる。初物を早く食べたいという消費者心理が、生産地と消費地の距離をますます遠いものにしている。木で完熟したトマトはおいしいが、いまの物流の仕組みではとても完熟するまで畑や木にならしておくことはできない。そこで完熟前に収穫し、倉庫やトラックの中で色づくを待つのである。

これでは子どものころ裏の畑でもいで頬ばった、あのトマトの香りと感触は味わうことはできない。完熟した野菜や果物のなかにこそ、本来野菜やくだものが持っている栄養素があるのであり、おいしさはその栄養素をたっぷりと味わうことでうけとることができる。

近年、産地直売の野菜売り場が人気を集め、定年を迎えた人たちが自分で畑を確保して野菜作りをしているケースが増えているのも、このことわざに由来している気がする。食へのこだわりというのではない。戦後のあの食料不足に時代に味わっていた身近な野菜がなくなっているのが、この飽食といわれる時代の現実なのだ。

初物のなかできふりはばかにされ

秋茄子はしうとの留守にばかり食ひ

ご亭主が留守でかぼちゃの値が出来る  (柳樽)
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