霞ヶ城の堀にそって一周する散策路がある。
その散策路を散歩したのは、もう数十年も前のことだ。仕事で使っていたバイクの事故で足を骨折し、リハビリを兼ねての散策であった。桜の季節には花を仰ぎながらめぐる道は、様々な思いで散策する多くの人々と顔見知りになる機会であった。いまでは、懐かしい思い出である。一本の桜に、「血染めの桜」と書き添えた板書があった。
戦国の世に勢力の拡張を競うなかで、白鳥十郎という武将が、山形城主である最上義光に咎められるような動きをしていた。白鳥十郎がどういう素性の武将であったか、歴史の上で明になっていない。下克上の世にあって、力を誇示して義光を追いやって出羽守の地位を狙っていた。近隣の豪族である寒河江氏と戦をし、また織田信長に使者を送ってよしみを通じようとする動きを見せていた。
出羽探題の家柄であった最上義光が、このような危険な動きを見せる白鳥十郎を許すことはできようはずがない。義光は、婉曲な方法で十郎を屠る道を選んだ。政略結婚という甘言で縁を結び、十郎を油断させ、自ら病であると偽って十郎を霞ヶ城へ呼びそこで殺害させた。その折に飛び散った十郎の血が、表の桜にかかり血染めの桜となった。出羽の豪族のなかで頭角を表わしていく、義光の戦略を語り伝える伝説である。
きょう、この「血染めの桜」が、先の大戦の軍歌として歌われていたことを偶然に知った。「年金受給者の交流の会」に出席し、90歳の老人と席が隣り合わせになった。名前を聞かなかったが、Aさんとしておく。Aさんは年齢にしては、矍鑠として、酒を好み、話好きであった。宴会は酒が進み、やがてカラオケになった。多くの人たちがおはこを披露し、手拍子がおこり、場は盛り上がった。
だが、Aさんはその場の雰囲気に不満げであった。「わしは、どうも演歌は好かん。もう知る人も少なくなったが、霞城の第二連隊で歌った軍歌をカラオケなしで歌うから聞いてくれ」とマイクを握った。Aさん行進曲調の調子に合わせ、こんな歌詞を唄った。
霞ヶ城に咲き誇る 血染めの桜仰ぎ見よ
紅匂うその色は 大和心の形とて
絨衣の袖に散る花は 七生の忠を偲ぶなり
Aさんは大和心を形とて、まで唄って「終わり」と言ってこの軍歌を歌い終えた。私はAさんから、この歌の詩をいま一度聞いてメモに書き取った。「もう、この歌を歌える人はいない。だが、自分もここに続く詩を忘れてしまった。さびしいね」と話してくれた。
Aさんの思いを知り、また最上義光が残した伝説がこんな形で今に生きていることを知って、私は驚くと同時にこの詩をネットで検索し、このブログに書きとどめることとした。
明治三十一年の年 春も弥生の末つ方
千代田の森に畏くも 皇御国を守れよと
朝日輝く我が軍旗 大御手づから賜りぬ
血染めの桜とは、戦乱の世のシンボルである。そのシンボルを醜いものとして否定することは、人間の存在の皮相を見ているに過ぎない。Aさんが演歌を否定し、この血染めの桜を唄った心のなかに、こうして歴史の悲劇に正面から立ち向かえという叫びが隠されているような気がして、酒の酔いが醒めていくようであった。