常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

秋を探しに

2019年08月26日 | 日記

朝の散歩を3日も怠っていると、路傍に咲く花が気になってくる。どなたかのブログにシュウメイギクの開花を知らせる文があったが、あそこの路地のシュウメイギクはそろそろ咲いただろうか、また咲き始めたコスモスはどんな様子か。そんな他愛のない気がかりが、朝の散歩へと向かわせる。案の定、シュウメイギクが咲き始めていた。爛漫と咲くには、もう少し日数をようするが、この花を見て、秋が来たことを実感する。

コスモスもまた花の数を増やしていた。朝のそよ風が、花をほんの少し揺らしている。草むらからコウロギの音が聞こえてきた。木陰に群れる雀たちも元気に飛び交っている。

日あたれば秋草なりし猫じゃらし 篠田悌二郎 

永井荷風は散歩の達人であった。歩きながら、その様子を書き留めた『日和下駄』は、折にふれて読み返したい名文である。その中に「閑地」という一項がある。

「私は雑草が好きだ。菫蒲公英のような春草、桔梗女郎花のような秋草にも劣らず私は雑草を好む。閑地に繁る雑草、屋根に生ずる雑草、道路のほとり溝の縁に生ずる雑草を愛する。閑地は即ち雑草の花園である。「蚊帳釣草」の穂の練絹の如くに細く美しき、「猫じゃらし」の穂の毛よりも柔かき、さては「赤の飯」の花の暖かそうに薄赤き、「車前草」の花の爽やかに蒼白き、「繁縷」の花の砂よりよりも小さくして真白なる、一つ一つに見来たれば雑草にもなかなかに捨てがたき可憐なる風情があるではないか。」

こんな文を頭のなかで反芻しながら、カメラを片手に歩くのも、この頃の楽しみのひとつである。ちなみに、ここに出てくる「閑地」は空き地を意味する。「繁縷」ははこべのことである。

 

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