常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

石川啄木

2014年02月16日 | 


石川啄木が故郷を捨て、小樽の町で新聞記者となったのは明治40年9月のことである。この年啄木は22歳の若さで、妻子を抱えていた。前年渡道した啄木は、函館の醸造家、宮崎郁雨の援助を受けていたが、安定した家庭を営むには物心両面で苦しい環境のなかにあった。函館、札幌、小樽と短い月日のうちに居所を転々とする。これは北海道にいる友人の庇護あればこその転進であった。だが自負心の強い啄木は、友人から世話された仕事先で、上司と折り合いをを付けられず、喧嘩別れをくり返した。

小樽新報では詩人の野口雨情とともに新聞の創刊に関わった。ここでの啄木の活躍は目を瞠るものがある。文を書く人材がほとんどいないなか、啄木は朝9時から夜10まで書き続け、3面から文芸欄に300行も書きまくった。だがこんな努力にも関わらず、新聞の先行きは一向に開けなかった。啄木はこの新聞を見限り、札幌に新聞社への就職運動をしていた。無断欠勤を咎められて、事務長と暴力事件を起こし退職を決意する。

子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな

幼子を抱えた妻の心中はいかばかりであったか。小樽の新聞社で喧嘩別れをしたものの、たのみの札幌の新聞社のらちもあかず、一家はたちまち生活の危機の直面した。かろうじて得た次の職場は、知人の経営する釧路新聞であった。小樽から釧路、この遠い見知らぬ地へと向かう啄木を妻は悲しい眼差し見送った。

しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな

この釧路の町で、啄木は芸者小奴と恋に落ちる。小樽に妻子をおいて、啄木の恋は実ることはできない。再び文芸を志して上京する。東京では親友の金田一京助の援助を受ける。朝日新聞社に入社、函館から家族を呼びよせたが、明治45年4月肺結核のため永眠。その生涯は青年の悲しみにみちている。


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