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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

晩年の本

2022年03月19日 | 読書
私の探しものは春の花ばかりではない。散歩のついでに立ち寄るブックオフの棚で、この年になって楽しめる本を探すことである。この古書店の棚に100円~200円のコーナーがある。文庫のほか新書だけでなく、日本人の作家の小説や実用書までかなり大きな棚に本が収めてある。村上春樹の小説も新本のようなものが200円で買える。たまたま目についたのが小島直記『私の「言志四録」』である。伝記作家の小島が死の前年に新装改定版として致知出版社から出されたものだ。

小島直記は幕末の儒者・佐藤一斉の『言志四録』を必見の書と考えている。還暦で妻を連れたヨーロッパ旅行で携えていったのが、岩波文庫の『言志四録』であった。イギリスやローマの史跡を見たあとホテルに帰ってこの本を摘読ししている。86歳になって、60代に書いた本の改定版を出すことは、この本を読めという小島の遺言のような気がする。私の本棚には講談社学術文庫の訳文付きの『言志四録』4巻が眠っている。小島はこの摘読から、これは心に響くもの書き留め、この本で紹介している。

数ある章句からひとつだけ書いておく。

順境春の如し。出遊して花を看る。逆境は冬の如し。堅く臥して雪を看る。春は固と楽しむべし。冬も亦悪しからず。

人生の順境と逆境について述べたものだ。順境とは万事が都合よく状態をさしている。その反対に逆境がある。すべてが意のごとくにならない時。誰の人生にはそうした時はある。川上正光氏の付記に「逆境は伸びるための準備をする時期であり、順境にあっては、心のゆるみを押さえて失敗しないように慎重に事にあたらねばならない」とある。

この本で小島は友人の伊藤肇の死について書いている。同じジャーナリストであるが、伊藤は財界に幅広い人脈を持ち、後に小島を伝記作家へ導く多くの偉人を紹介した。同じブックオフで伊藤肇の『人間的魅力の研究』という本を見つけた。良寛、西郷隆盛、瀬島龍三。こうした人物の魅力につて書かれ、初めて触れる面白い本である。こんな掘り出し物が200円で買えるという望外の幸せに、春の順境を満喫している。
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大切な言葉

2021年12月29日 | 読書
80歳を過ぎて、本を読んで何の益になるか。時々感じる疑問である。いつか同級生が言ったの言葉が衝撃だった。「本は読んだ先から忘れていく。どの本も内容はほとんど覚えていない。」昔、読んだ本を取り出して眺めていると、こんなことが書いてあったんだ、と驚くこともしばしばである。身に覚えがあるために、友人の言葉に衝撃を受けたのであろう。新藤兼人のこんな言葉が励ましになる。

「わたしを孤独から救いだしてくれるのは一冊の本だ。新しい本をひらくのはヒミツの扉をひらく気がする。古い本もまたいい。そのときどきの生きた時代に出会える。そのむかし、わたしの心をゆり動かしたものが、いまどんな姿をしているだろうか、別れた恋人に出会うような気持ちである。」(新藤兼人『老人読書日記』)

1941年と言えば、自分が生まれた年だが、この年の12月27日博物学の巨人、南方熊楠が亡くなった日である。夏目漱石や正岡子規らと同期で大学予備門に入るが、体操不要を主張し授業を欠席したため退学となった。写書や採集を基本とする学問を続け、アメリカ、イギリスの留学を終えて博物学の大家となった。

「東京のみに書庫や図書館あって、地方には何もなきのみならず、中央に集権して田舎ものをおどかさんと、万事、田舎を枯らし、市部を肥やす風、学問にまで行わるるを見、大いにこれを忌む。」(南方熊楠「友人への手紙」)

昨日、散歩のおり書店に寄り、エマニュエル・トッド『パンデミック以後』を買う。この人の言説には、独特の視点があり、世界の見方がある。パンデミックが世界に危機をもたらしたのではなく、世界の危機的状況を露呈させた、という貴重な指摘がある。
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秋はふみ

2021年10月14日 | 読書
読書の秋である。夜の長さに、本を2、3冊寝室に持ち込むが、2、3ページ読んで眠気がさしてくる。漱石の句に

秋はふみ吾に天下の志 漱石

というのがある。明治の文豪には、国家や国民に役に立つ、という強いモラルがあった。漱石の心情は「自由な書を読み、自由なことを言い、自由な事を書く」というのであったが、その根底には「世の中に必要なもの」という大前提があった。そうした心意気が詠まれた句だが、それに比して自分の現状ははなはだ心もとないものである。

漱石の句に因んで、『草枕』のページを開いてみる。唯一、本棚の漱石全集はほるぷの復刻版で、出版されたときのままの豪華装丁である。明治40年1月1日、春陽堂から発行されている。小説というには、筋のない話が続く。旅の絵描きが泊まった九州の温泉で、絵描きとその宿の娘那美さんとの会話が面白い。

「あなたは何処へ入らしつたんです。和尚が聞いて居ましたぜ、又一人散歩かって」
「えゝ鏡の池の方を廻って来ました」
「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが・・・」
「行って御覧なさい」
「絵にかくに好い所ですか」
「身を投げるに好い所です」
「身はまだ中々投げない積りです」
「私は近々投げるかもしれません」

絵描きは宿で持っていった英書を読んでいたが、日本語で読んでくれとせがまれてしぶしぶ読む。小説はぱっと開いたところに何が書いたあるか、それが面白い読み方と那美さんに教えている。その通りに『草枕』を読んでみると、なるほど面白く感じる。会話の部分には、ユーモアがあり、落語を聞いているような雰囲気がある。『草枕』は漱石40歳の作品。『猫』の執筆中、2週間ほどで書き上げた。テンポも話題も、漱石の小説の特徴がてんこ盛りの作品である。
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やれやれ 村上春樹

2021年08月16日 | 読書
本は断捨離できない、とブログの名手の言葉があった。そうだなあ、と思いながら自分の本棚をみていると、本の間に小さく畳んだ新聞が出て来た。2016/10/2の朝新聞のタブロイド判のグローブだ。特集の題字は大きく、「不安な世界をハルキが救う」とあり、7ページにわたる特集記事があった。この年は村上春樹の小説の世界に惹かれ、次々と読んだ年であった。新聞の特集記事が気になってとっておいたものらしい。そんな記事があったことすら、すっかり忘れている。

不安な世界、といえば昨年から始まったコロナパンデミックの今日を指すような気がする。記事を読むと、村上の小説は国内では評価されない向きもあるが、世界50か国で翻訳され、紛争や民族対立を抱えている国々の読者の不安を癒している、という内容である。イタリアの翻訳者アミトラーノは、インタビューに答えて語る。「村上は世界中のどの作家の追随を許さないほど、現代という時代の本質をつかみ取っている。様々な国籍の多くの読者が、村上作品について「自分のためだけに書かれた」という共通の読後感を持つのはそのためでしょう」と述べている。

村上の小説を読んでいると、登場人物の会話のなかに「やれやれ」という言葉が時おり現れる。例えば、『ねじまき鳥クリニクル』で、失業して主夫をつとめる主人公と妻クミコとの会話。
「それからついでにもうひとつついでに言わせてもらえるなら」と彼女は言った。「私は牛肉とピーマンを一緒に炒めるのが大嫌いなの。それ知ってた?」「知らなかった」
「とにかく嫌いなのよ。理由は訊かないで。何故かはわからないけれど、その二つが鍋の中で炒められているときの匂いが我慢できないの」
「君はこの六年間、一度も牛肉とピーマンを一緒に炒めなかったのかな?」
彼女は首を振った。「ピーマンのサラダは食べる。牛肉と玉葱は一緒に炒める。でも牛肉とピーマンを炒めたことは一度もないわ」
「やれやれ」と僕は言った。
「でもそのことに疑問に思ったことは一度もなかったのね」

ちょっとしたいさかいである。そこからクミコは夫が、私のことは気にもとめず、自分のことだけを考えて生きている、と結論づける。「やれやれ」は仕事が終わってほっとした時に発することが多いが、がっかりしたときや、しくじったとき、あきれたときにも発する。主人公が言った「やれやれ」は後者に方である。複雑な心を表現しながらも、相手とも折り合いをつけたい意味合いもある。グローブの記事はこの「やれやれ」を外国語ではどう翻訳したか、表にまとめてある。原語と日本語のニュアンスを書き加えてあるが、日本語のニュアンスだけ紹介する。
英語 「すごい」「ひどい」
フランス語 「私にとっては想定外の事態」
ドイツ語 「狂ってる」
ロシア語 「けしからん」
中国語 「あーと叫ばずにいられない」
原語がその国でこの通りに解釈されるのか、知ることはできないが、村上の言葉を外国語に訳すことが難しいのはこの一語だけみても分かることだ。


コメント (2)
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ワクチン

2021年05月24日 | 読書
東京、大阪の大規模接種会場でコロナのワクチン接種が始まった。感染が収まりを見せない中、報道はこのニュース一色である。今日、日本のコロナ感染者はこの1年半で72万人、死者1万2千人。世界に目を向ければ、感染者1億6千7百万人、死者は345万人で、なお感染は拡大中である。減少傾向を見せているのは、イギリスやアメリカなどワクチン接種が進んでいる国だ。思えば、人類の歴史は、感染症との闘いであったとも言えそうだ。

幕末の蝦夷の地でロシアに捕らえられながら、種痘の知識を得て、北海道南部で種痘を行った人物がいる。中川五郎治、陸奥に生れ、エトロフ島で松前藩が設けた番小屋の小頭であった。北方開拓に夢を抱いた五郎治は、多少
ロシア語も齧り通詞の役もこなした。だが、この冒険とも言える五郎治のエトロフでの仕事は悲惨を極めた。日本へ通商を求めて、厳しい交渉を行うロシアは、幕府の煮え切らない返事に武力行使も選択肢に入れていた。まして、蝦夷の東海岸やクナシリ、エトロフなどは、少数の番人がアイヌ人を使役しながら島を支配しようという小勢力であった。武器を持つロシア船は、島の島民の家を襲い略奪をほしいままにしていた。そこの番小屋で守りに就こうとした五郎治だが、まともな抵抗もできず、囚われの身になる。

極寒の地での脱走、飢えと寒さと死に向き合う凄まじい期間が2年余続く。だが逃げ込んだロシア人の家で僥倖が訪れる。ロシア政府は、捕虜の日本人を日本で囚われたロシア人と交換するため、五郎治もその一人に選ばれる。やっとのことで帰国の途につき、ある商家に泊まった。そこで目についたのが、種痘の記述あるロシア語の本である。かの解体新書にしてもそうだが、当時の日本人の知識欲の凄さは並はずれていた。おぼつかない読解力でそれを読むと、街に医者の頼み込んで種痘の実際を見せてもらった。牛痘苗、天然痘患者の膿を牛に植えて得られるものである。

解放された五郎治は松前藩の目立たぬ役人となって細々と暮らすことになった。文政7年、五郎治が暮す松前で天然痘の大流行が起こった。五郎治はこの状況を見て、自分が得た牛痘による種痘法で人の命を救う決意をする。患者たちは五郎治の方法が信ずることができずなかなか種痘を受けようとしない。11歳の少女が、命欲しさに種痘を受け、その効果が出ると次々と種痘を植えるものがでてきた。洋医学が導入されて日本で種痘が始まる25年も前のことであった。五郎治はこの牛痘苗の製法を人に教えることをしなかった。死をかけて得た知識は、自分の財産としたかったのだ。ワクチンの原型がここにある。吉村昭の『日本医家伝』に中川五郎治の一項がある。コロナワクチンの接種前にぜひ一読しておきたい本である。

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