嘲りと女たちの現状に関して私の認識が間違っていた、としよう、すると

2018-01-21 19:26:38 | Weblog
さて「女の創造」云々。 もしこの状況が「詐欺、嘲り、虚飾、貶め陥れて奴隷化する文化はもともとあって、それらを女の側に寄せた」「それらを寄せるために女を創造した」のならば、今私が女の側にそれらを見て嫌っているのは創造目的が達成された事を意味するわけだ。 でもそれって例えば千年おきくらいに処理、再創造する案件なのでは?とも思うわけで。 「運用・処理方式間違っていないか?」というのと「天使たちが何故女の側に傾いているのだ?」といった疑問が残ると。

処理処分しないのならば、「女たちの自己正当化を認める」のではなく、「絶えず善悪を説き改まりを求め続ける」でないとおかしくないか?と。
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「ゴー宣」結局なんなんだろうなあ

2018-01-21 19:18:52 | Weblog
去年前半、だったかな?を賑わしたSMAP騒動が年末だったかに収束した模様。 私はこれ「麻薬事案だろう」と思っている。
元々大手芸能事務所が芸能人たちを縛るのに「麻薬を勧める」というのがあるというのは巷で囁かれている話で、旧メンバーたちは麻薬欲しさで事務所に同意したのだろうと。

なんでも小林よしのり氏が「ネットウヨクは女にモテなくて僻んでいるのだ」と言ったとかなんとか。 彼のこの手の発言は近年何回かあったし、またサヨク筋ネットウヨク評にも度々出てくる定番ネタでもある。 私自身ネットウヨクと称する側だが、まあそうなのかもな、と思わなくもなく。 私に浮いた話。 どうだったかな。
靖国参拝運動をしていたころのネタで、チャットで私が「最近、「戦争論」の訳本を読んでいる」としたものがあった。 当時の団体?のリーダーの人がそれを受けて「私「戦争論」嫌いなんだよね」としたと。 「古典に対して独自の好き嫌いを持つのか、すごい」としたところで、齟齬に気付いた感じだったが、まあ当時のネットウヨク界隈では「戦争論」と言えば小林よしのり氏のそれを意味していた、といった話。

でだ。 この小林よしのり氏の状況。 当初は反米からサヨクだったのだとか。 これが2000年前後かな?中国の内政干渉を嫌った漫画を描いて若年層ウヨク界の旗手的な位置に付いたと。 ここから「俺が凄いんだ」的な態度を取るようになり手を広げて借金を作って、パチンコ業界だかに拾われて以後業界のスピーカーみたいになってしまっていると。
これ、ブラインドなんだな、おそらくは。 サヨク業界の人間に、「今の日本の若い人たちが何を考えているか」が見えなくなるようになっている。 疑似旗手だった彼が彼らの側に転んでそのまま騒ぐ。 そうすると「彼がこう言っているのだからネットウヨクはクズ集団に違いない」とすると。

地獄行確定、なのだが、他になかったのか。
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トマトとツバメ、食の戒律

2018-01-21 18:30:28 | Weblog
個人的な恨み言。
まず「食の戒律」な。 これ無い方がいいと思っている。 宗教で押し付けるものではないと。 各人が勝手に判断する。 その場合は「自分で決めた」となる。
私の場合だと「豚肉禁止」が自分で選んだ。 旧約聖書を読んで「やってみるか」として始めた。 同時期に、同様の理由で始めたのが「土曜日にパンだね入りのパン禁止」。 そして、押し付けられた、としているのが「親子食いの禁止」。 始めた当時の感覚で、「勧められる」、「雰囲気的に推奨されている」というのがあって。
この三つ、2009年に五月雨式に初めて2011年の夏に一旦止めた。 「思い付きで始めた下らない習慣、再就職する際に邪魔だ」としたので。 で、その後尿路結石で苦しんだ際に「豚肉」と「親子食い」を戻した。 「恨んでいる」と言うのかな?は「親子食いの禁止」だけ。 「豚肉禁止は自分でやっている」「社会的に意味がある」としているがこちらにはそれらが無いと。 意味がなく、ただ状況を悪化させるためだけのもので下らなく、そしてこれといった止める機会がもう無いものなのだと。

トマト。
母親との確執の一例。 一時期カレーを作っていたのだが、無水カレーのベースにスーパーなどで売っている普通のトマトを使っていた事があり、これを母が「無駄だ」と評す事が多数回あったと。 結果スーパーでトマトが売っている事を嫌いになり、そして、母がテレビ特に韓流愛好家だった事、民主党指示傾向が改まらない事なども併せて母を、知性を持たない下等な生物と見るようになった。 これは直接的にはあの「糞ガキ」は関係しないな。

ツバメ。
たしか2012年だったと思う。 東京の、六本木ヒルズでだったか。古代エジプト「死者の書」展に行って、その帰りに駅前で、ツバメの雛が巣から落ちた。 拾って育てた。 目が開き、羽毛が生え変わった後に死んだ。 正確には、私が死なせたのだがその状況から、何を恨めばいいのか、あるいは何かを恨んでいるのか判らない状況が続いていて、月日と共に記憶が薄れてきて、そのうち忘れ去る事になるのかもしれないと思う。 相変わらずこれにつき、何がしたいのか判らない。
来た日と去った日がちょうど父母の誕生日で。 個人的にそれぞれ、死者の書展から「ホルスの日」、栄養不足だろう嘴が曲がって育ってしまったので「イスカの日」としているのだがこれがあの「糞ガキ」が関わった証拠、責任者署名のようなものだろうとしていると。
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私はそいつを「要らないものを押し付けてきて事を悪くする」って思っているんだな

2018-01-21 18:03:52 | Weblog
「こいつがマシだったら世界はもっと早く良くなっていたはずだろうに」と。
失敗を認めず指摘されると嫌がらせを始め、悪さの見本のようになる。 「認めれば負の連鎖は止まるだろうに」と。
結局のところ、「女の創造は失敗だったと認めろ」という話になるのだが。
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毎度の事だが、お前だけでやればいいしばらくは

2018-01-17 14:53:47 | Weblog
なるほど提案にはなった。
でもそれって日ごろから選択肢があってそうしているって事だよね。

嫌がらせで人を止めるならばそこで協力関係は破綻。
助ける気はない。
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嘲りの境界

2018-01-17 13:51:42 | Weblog
人に「裸を隠す理由は?」と聞いたとしよう、一般的な答えは、「嘲りを避けるため」である。 「服装に金をかける理由は?」となるとこれがその対にして逆。 「他人を嘲るため」。

相変わらず邪魔が発生する。 書くのを止めた。
あらかじめ「やるな」「だからお前のやり方は信用できない」としておいたのだが。

なるほど。 嫌がらせの類に対して嘲りを返した形になったな。
そもそもの理由、原因を造るのがおかしい。 しなきゃいいのに。
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詐欺師、振袖、マンコ共の結託パワーゲーム

2018-01-15 19:49:56 | Weblog
今回は日本ローカルネタ、社会経済ネタ、神秘(悪魔)ネタまぜこぜで行く。 普通ついてこれない。 だからわけわからなくとも気にするな。 まあ趣旨はわかんないと駄目なんだけどな。

先週だったか、日本で振袖詐欺被害ってのがあって。 ざっと書くと、振袖を着る機会、着て他人にそれを見せびらかす機会なのだが、として成人式って風習があって。 ウン十万だのウン百万だのする振袖を貸し出す業者が居るのだがその業者の一つが成人式当日にバックレたと。 計画倒産だか何だかで、貸出元の持ち主には返さず、貸出先の利用者は使えず、未確認情報だと当の振袖は売り払われて、業者は上海に高跳びしたらしい。
で、問題とされているのが、
・この案件を詐欺として立件できるか
・トンズラ扱いた業者を始末できるか

というのがあって、これらとは別に
・成人式ってそういうものなの?
・振袖見せびらかしに貸出料十万円以上とかそういうのってどうよ?

といった疑問がもっぱら男の側から出ていたりすると。 今回のテーマはこの、下の方への反応。
ネットでマンコ共が男叩きネタぶち上げてんのよね。 私に言わせれば女の側から「振袖って無駄だよね」という見解が出回って主流化してもいいはずなんだけど、逆の流れになってる。 で、宗教ネタで言うと、これが地獄化。 普段からパワーゲームやっている、華美虚飾誇示威圧を当然の権利とする、そして素朴な疑問に対し集団制裁を発動しようとする。 マンコ共の日常が畜生道なんだよ。
で、神秘ネタ。 グリゴリたちが堕天した話な。 「神の子」シェムハザは甘いんだよ。 悪人たち、それと畜生共に。 畜生共の世界の地獄化を回避する管理者には向かないの。 お友達としてはやってけるんだろうけど。 じゃあきびしくする人ならいいのかというと、いや管理は出来るだろうが畜生界には向かない。 ストレスで死ぬか嫌われて殺されるか。
じゃあ共同統治ならイケるのか。 理論上は、としか言いようがない。 だから「兄と弟」だの「主の主」だののネタなんだが。
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怨霊ヨセフ

2018-01-14 16:51:32 | Weblog
キリスト教系のネタで「メシア(イエス氏)は何故ユダ族でなければならなかったのか」といったものがある。 霊的資質が子孫に~とか契約だから~とか約束のもたらす作用の方が目的~みたいなのがあるが、一番簡単な答えは、もともとが身内ネタだったから、と。

さてヨセフ氏、表題から「怨霊ヨセフ」とする、はレア、シメオン、レビの母子三名を許したのか。 雑感として、否である。 世界は相変わらずこう、ユダヤ教徒とキリスト教徒、スンニ派とシーア派、だし、私もイラつく。 「世界がこうだからの許さないポーズ」なのか「世界が怨念に左右されている」なのかは見解が分かれる所だが、例のくそガキもまた。

視点を変えてみよう。 「実は許さなくても良いのだ」と。
「許さない」場合にどういった場面で問題が発生するのか。
1. 「許さない」(と決めた)相手が近くに居る
2. 「許さない」相手なので嫌がらせをする
3. 加害の応酬から被害が拡大する

あれ?つまり「許す」とか「許さない」とか気にせず互いに離れて暮らせば問題にはならないって事?みたいな。
この観点だと問題は癒着状態の方にある。 「加害性を通じた相互癒着」だな。 「許す」「許さない」といった決め方自体が癒着状態を前提としたもので、過去の癒着状態から「俺は被害者だ」といった発想が生まれていると。 無関係状態で気にせずいられるならばそのうち「気にしないでいる」方が当たり前になる。

外国人YouTuber、今度は日本の女児を連れ去り炎上! 海外の反応。
http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51960320.html
https://www.youtube.com/watch?v=1-ZlvXiQzTU

あちこちで問題視された模様の動画で、「自由とモラルの線引きはこう」といったネタで使おうと思っていたものだが、この動画に見られるものが癒着性なんだな。

加害性の相互癒着が「許す」「許さない」とかといった発想。 ここから離れる人は離れた時点で心の平安を得る。 離れられる人同士でも互いを尊重する関係を築ける。 問題は残される側である。 離れられる人が皆離れていくと、残された人間たちの場所は「加害性の相互癒着」の者たちだけの社会になる。 「地獄と刑務所はどう違うのか」「悪人だらけが集められた場所を地獄にしない方法は」みたいな話。 だから所謂、のあれがああなんだね。
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問題児ガブリエル

2018-01-13 17:12:16 | Weblog
所謂アダム原罪論の。 アダム氏が知恵の実(善悪の知識の実)を食べた結果にヤハ氏は「地は呪われた」と言ったと。 この呪いってなんの事だか解る?
これね。 日常的にあるの。 判り易く書くと、嫉妬。

エデンの動物たちはもともとアダム氏をどう見ていたかってのがそれで、聖書に答えが載っている。 身を食べたアダム氏らが最初にした事。 裸を隠す。 うんだから動物たちはアダム氏らを「裸」「爪も牙もない」「足も遅い」「目も耳も鼻も効かない」「暑さにも寒さにも弱い」「デカくて目立つのに堅い皮膚も毛皮もない」と嘲り見下していたんだね。 これがある日突然変わった。 知恵を持つ存在に高められた。 「底辺アダム」が「強者アダム」に引き上げられた事への怒り、憎しみ。 これが呪い。
この「呪いの正体」が隠され続けてきた事がこれまでのこの世界の形だったんだな。 更生期間、執行猶予として。

「アダム氏に知恵が無ければ皆幸せだったのに」って言うでしょ?原罪論者は。 これ違うの。 だって神様は「知恵のある側」だったから。 見てたの。 動物たちと、アダム氏の関係を。 動物たちがどうあったか十分理解していて、事があって、そして猶予期間を与えた。 動物たち、諸霊に。
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「わがままな事は意外と善良」、「理想論は実は邪悪」といった話の境界線

2018-01-11 00:07:14 | Weblog
ここ最近何回か、「悪魔~」みたいな事を書いた。 今回はそうした話の原則論、背景みたいな。

「わがままは善良」と言われてもピンとこない人が多いと思う、だが表現を変えて「自分に素直である事は善良」とするならば違ってくるだろう。 この「わがまま」と「素直」とされる状況の境目はどの辺りにあるか。 要求が複数ある場合、である。

普通に生きていると要求、欲求は複数あるわな。 食う寝る遊ぶ、ウンコする。 神様に対して「こうして」というのを一回に一つだけして、その時は他は気にしない。 そうあるならば神様の方でも実現可能かもしれないわな。 差し向かいなら。 これが「AかつBかつC、さらに比率は今はこうで先々気分に応じて」となると、複雑化する、そうすると無理になってくる。
人間は社会の中に生きていて、要求、欲求がいっぱいある。 いっぺんに複数の実現を求める。 一つずつ実現し、学んでいく。 これがある。 そして別の方法もある。 他人を利用する、他人に実現したものからその人を、押しのければいいのだ。 ここに理想論の利用価値がある。 他人を操作出来るのだ。
社会が複雑化するほどこの、「わがままが善」「理想が悪」の傾向が強まる。 人が単純な欲求から離れていき、実現可能かどうかがあいまいでも通るようになり、そして押しのけるに都合が良い大勢の他人に話しかける、命じる事が可能となる。 これが単純な社会だと「馬鹿かお前は」だったり「お前のせいで損した」となったりするのだが。

さてここで考え方が判れると。 「理想論が邪悪なのではない、それを利用する人間が邪悪なのだ」というものと、「理想論は邪悪な意思を実現可能とする」というもの。 人の邪悪さを可能とし、それが正しいものであるかのように装わせるもの。 これある種の「悪魔とはこういうものだ」という定義に一致したりすると。

さてこうして語らっている私はどうなのだろうか。
どうだろうな。 一つの可能性として、「騙す人は騙そうとする事を止められない」というのはどうだろう。 釣り師は針にかかった魚を放さない、そんな話。
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