狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

ヤクザ経済の指標

2011-07-10 15:21:05 | Weblog
ネタ切れ、というほどでもない。
でも一つのネタが溢れるというほどでもない。
適当に本から拾って組み合わせる、あるいは連載物に走るなど手はあるが
なんというか感情が薄いというか書く言葉の暴力性に捻りが無いというか、
そんな感じのままどこまで書けるのか実験中といった意識。

露天商をやっている人が居たとする。
そこに変な人たちがやってきて言う。
誰に断ってそういうことをしているんだと。
地元の警護をしている自警団の類だとでも言ったとしよう。
近所で商売をしている人は皆そこに会費を払っているのだと。
トラブルは嫌なのでその露天商は彼らに会費を払うことにしたと。

その露天商はそこでの商売を続けたとする。
そこに見るからにチンピラのような人がやってきて言う。
俺はこの辺で顔が利く。
俺の仲間だということになれば変なヤツもよってこないだろうと。
トラブルは嫌なのでその露天商は彼に便宜を図る事にしたと。

露天商が商売を続けたとする。
宗教団体と名乗る一団がやってきて言う。
ここは風水が悪い。
お布施をすればお払いをして環境を整えてやると。
トラブルを避けるためその露天商はお布施をしたと。

露天商が商売を続けたとする。
社会福祉団体を名乗る人たちがやってきて言う。
世界の困っている人を助けるために寄付をしなさいと。
儲かっている資本家はそうすることが義務であると。
トラブルを避けるためにその露天商は寄付をした。

露天商が商売を続けたとする。 他の場所に行けよ。
マスコミを名乗る人たちがやってきて言う。
広告費を出せばあなたのお店を業界紙に載せてあげると。
載ればお客も増えるだろうし取引相手との信用も増すだろうと。
お客が減るのも信用低下も嫌なので、その露天商は広告費を出したと。

福祉団体なら良い、ヤクザは必要悪だ、などなど意見は色々あるだろう。
昨日マシ連中がだったのが今日マシではなくなるといった事もありえる。
マフィアも元は互助団体。
よって考えるべきは露天商がユスリタカリの類を断れるかどうか、
そして断ったらどうなるかだ。

露天商がチンピラの申し出を断ったとする。
そのチンピラは仲間に言うだろう、あの店は俺の面子を潰したと。
ソイツの仲間はどうするか。
すぐありそうなのは万引きとか営業妨害とかだろう。
曰く、万引きなんてよくある、曰く、ナンパをしていただけだ、
言い訳なんていくらでも出せる。
チンピラ仲間は何故そういうことをするのか。
仲間意識、身内意識なんてそういうもの、理由があって
楽しければそれでいい。
そうした意識にチンピラヤクザも革マルも中核もTBSも違いは無い。

では社会はどうあるべきか。
寄付に否定的になるか。 それもありだろう。
どの道アフリカ募金の類はアルカイダの資金源だろうしな。
でもそれで統一が取れるとは思えない。
世の中一物一価が徹底しているわけではなく、店主の目分量で
物と金が行き来する。 そこに政治判断も働く。
政治判断が働くのならその天秤のもう片方には嫌がらせが乗る。
よってそうしたユスリ、タカリを無くそうというのならその社会は
嫌がらせ、特に万引きのような行為は駄目だということで一貫して
いなければ話にならない。
さて、そうなっているだろうか。
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経済の指標

2011-07-10 15:20:43 | Weblog
神様があるのならなんで麻薬なんてあるんだ、と聞く人もいると思う。
私はそれは糞門政策のためにあるのだろうと見ている。
最終処理場がバビロン。
ではタバコも最初からそのためだったのかと問われると
別の目的も有ったのかも知れないと答える。
当時のキリスト教徒の状態からするに、安価な香水として用意されたもの
だった可能性も否めないわけで。
他には文化拡散試験。
とは言っても、当初の目的がそれだけではなかった可能性があるにせよ、
その政策に利用する事が間違っているとは思っていないわけで。

所得が二倍になっても胃袋が二つに増えるわけではない。
パンツを重ね着する人は少数派だろう、そういう人が増えている
という話を聞くことも無い。
経済に加速があれば減速もある。
常時加速が無理なのだから借金経済は景気の前借以上の意味は無いだろう。
何らかの形で少しは意味が有る、例えば技術革新のスピードなど、のかも
しれないが、業者や学者が言うほどではない事は確かだ。

所得が倍増するという事を経営者から見ると、支払う給料が倍になる
ということだ。 では消費者の視点からそれはどう映るか。
物価が据え置きで店員の所得が二倍。
物一つあたりにかかる店員の時間が半分になったということだ。
対面販売ならシステム化、さらには無人化が進んだとでもと言うべきか。
所得倍増とは自動販売機が増える事を意味する。
欲しいのは物なのだから店員は要らない。
では要らなくなった店員は何処に行くのか。
別のお店だろう。 パンだけ、ご飯だけだったのがパンもご飯もになる。
だが胃袋は増えない。 右と左で違う靴を履くようになるわけでもない。

所得の倍増を被雇用者の立場から見るとどうなるか。
働く時間が半分で済むようになる。 これは真だがおそらくこうはならない。
雇う側からすると雇う手間は所得によらず一定だ。
経済的つまり金銭ベースで言うなら倍働く人を雇う、という事に落ち着く。
所得が倍増するとは店舗の無人化、自動化が進むと言う事だ。
だが自動化が進んでも売る事の責任は一定。
被雇用者、この場合は社員という事になるが、にとって所得倍増とは
責任が二倍に増える事だ、となる。
値段据え置きなのだから経費が圧縮されるのでなければ当然売り上げが
倍にならなければ利益は倍にはならない。 経費とは結局は誰かの給料の事。

こういうケースを考えてみる。
店主が一人でつくって一人で売っているケーキ屋があったと。
そこでは一個100円のケーキと一個500円のケーキを売っている。
以前は一日に100円のケーキが100個、500円のケーキが20個売れた。
売り上げは100*100と500*20とで合計20000円。
景気が良くなった結果高級志向が強まり100円のケーキが50個、500円の
ケーキが70個売れるようになった。
新しい売り上げは100*50で5000円と500*70で35000円との合計で40000円。
倍増である。
売れる数は一日120個で変わらず。 物の値段も変わらず。
売り上げの内容が高額な側へシフトした。
個数が同じなので売る手間は変わらず。
高いケーキの方が材料の種類も多く作る手間もかかるので仕事量は増えた。
材料を注文する頻度も増えた。 早い話が忙しくなったと。
所得が倍になったのならその程度はと言った所だろう、ではその先はどうか。
そこからさらに所得を倍にするにはどうするか。
2000円のケーキでも開発するか。
これを消費者の側に当てはめると所得倍増とは500円のケーキの事であり
さらには2000円のケーキの事である、となる。

所得が倍になっても胃袋は倍にはならない。
カロリーぎりぎりの生活から食料を二倍にしてもデブになるだけ。
では所得が倍になるメリットはどこにあるのか。
教育、娯楽、それと休日あたりだろうか。
必要物に対する人の手間を減らせるということは生産にかかわる人の数を
減らす事が出来るということで、自分が休む、他人を生産以外の場所に置く、
あるいは余った労働力を不必要物に投入する、などといった事が可能になる。
それが良い事なのかと聞かれたら、多分良い事なのだろうとする。
ではそれが悪い事になるのはどういった場合だろうか。
例えばこんな状態はどうだろう。
必要物と不必要物の認識を逆転させる。
不必要物、まあ娯楽の類か、の生産を優先する挙句必要物の生産を滞らせる。
本来なら一次産業や物流、災害対策などに向けるべき政治力を、宣伝や
権力を目的とした闘争に向けるようになったらそれは、繁栄がもたらした
認識の逆転現象だとするべきか。
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国民の教育とはどうあるべきか

2011-07-10 15:19:53 | Weblog
現在の日本人には、生活水準の下落を社会が良くあるのならと容認する人たちと
それは到底容認できないとする人たちとが居ると。
主流派である前者に対し後者が巻き返しを図ったのが、いわゆる年金選挙。
そして後者は手を変え品を変え、相変わらず様々な事を吹聴して回っていると。

相変わらずお金が一時間で3%減るのと一週間で30%減るのと半年で50%減るのと
では一時間に3%減るのが一番得だ、といった論を随所に見かける。
言う人は他人の財布の3%を持っていく現状が美味しいのだろうが、そうした論に
ついて行く人、言われて広める人というのはどういう人なのか。

国民の教育、国民にとって必要な教育とはどういったものか。
私が書いて後の人間がそれを科挙化する、というのは問題の再生産でしかなく
馬鹿らしい話だが、内容を考えることそれ自体は面白い。
上に挙げた例に見るように、賢くない人というのは経済活動における時間の
感覚に乏しい。 そしてそれが馬鹿騙しのネタにもなっている。
教育の目的の一つは収入支出と時間の関係に置くべきだろう、
義務教育課程におけるその目標は複利計算とその社会的結果の学習。
借金返済計画や失業後の生活を中学校で教えろと言ってる。
賢い人には教える必要が無いだろうが馬鹿には絶対に必要。
それをやってこそ受験勉強ではない国民の教育だ。

賢くない人たちに馬鹿騙しとその結果を伝える。 理解させる。
これが国民教育の目標の一つ。
現状はどうなっているか。
そうなっていない。
日本でそうなっておらずアメリカでもそうなっていない事が明白。
欧州でも同様だろう、相変わらず白人が脊椎反射でファシズムだと叫ぶ。
大学で「馬鹿の上手な騙し方」を教える事こそが教育だとされている。
日教組の言う市民の団結だ資本主義地獄だ、がまさにそれなのだから笑える。
そろそろ本音を言ったらどうだ。
私たちの教育目的は馬鹿レギオンの隊長を作る事です、て。

収入がある。
支出がある。
収入が減ったらどうするか。
答えは簡単、支出を減らせば良い。
そしてこの答えが、宣伝業者の利権とぶつかる。
現在の人類社会は宣伝業者の思想統制下にあるので学校でそれを教える事は
タブーとなっている。
でも書く。
統制なんぞ知ったことか。
まず読み書きソロバン。
次に教えるべきが支出を減らす事。
固定的な支出を作らない事。
失業という状態も選択肢の一つだという事。
これらを教える。
支出が固定的である事、失業出来ない事、それらが人を
奴隷制度の無い現代社会にあって奴隷化するのだと。
団結しても「団結」という固定支出にノーメンクラツーラが出現するだけ。
そして奴隷状態になってしまった人の多くはその状態に気付く事無く延々と
業者に支払い続ける生活を送る羽目になる。

さて結婚制度は奴隷状態だろうか。
どちらがどちらの奴隷にせよ、そうだと納得してそうするのなら問題は無い。
そしてこれは一応、学校で教わる事の一つだったりもする。
教科書には「女性解放」といった風にしか載っていなかったりするが、
生徒たちは休み時間や休日に、その実態を学ぶ。
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謝罪云々

2011-07-10 15:19:28 | Weblog
私は中国人は棄民だとは思っていない。
とある集団が、中国人のための祭司なのではと見ている。

先日のエントリーだがニュースを見てから書いたわけではなく。
毎度の事なのでもう驚かないが時系列順だとおそらく、
1. 事があった
2. ニュースになった
3. 私が書いた
4. 私がニュースを知った

こんな感じか。

朝鮮人の本音の一つは「棒子のままでいたかった」なんだろうな。
だが南北それぞれアメリカ、中国という後ろ盾を持って睨み合う現状、
それを公言する事はタブーとなっていると。
中国人の憤懣はその筋でいくと「何故本土中国は台湾のようではない」だ。
これらが国家序列意識と相まって「謝罪を要求する」といった
国民行動になっているわけだが日本人に言わせればそもそも序列意識が
おかしいのだ、となる。
中国人に、そして汪兆銘氏に対する日本人の罪をあえて挙げるならそれは
戦争に勝てなかった事だろう。
三者の内一番マシだった人が、現在の中国では国賊とされている。
もっとも、巨悪の国賊というフィクションを必要とするのは日本人とは
無関係にある中国人の悪癖であり、それを掟としているのはやはり無関係な
中国の因習なのだが。

バビロンで死んだ女の話だがあれは白人受けが良かっただけで
結局はボクサーを応援した女と同レベルだったのではと見る。
かの地の白人たちにしてみれば「支援さえる独裁者」の走りか。
そこに暮らすその女の同胞たちはその活動を称えるかもしれないが、
私に言わせれば身内に親しいだけで、独裁体質とはそういうもの。

1990年代を振り返る。
冷戦が終わりスパイ失業時代が始まった。
旧東側のスパイ産業従事者の多くがそのまま失業したわけだが旧西側では
何が起こったか。
業種転換した。
旧来は戦争に勝つため、負けないためにやむなしとして使われていた宣伝が
その時から戦争以外の目的ために使われるようになった。
平和になった結果敵とされる状況に適応できない当時の日本人の様が出ている
のが「沈黙の艦隊」なんかの作品で、政治の混乱は今なお続いていると。

そうした状況に逸早く適応したのが朝日新聞などの、私がサヨクと呼ぶ勢力。
危機にあった彼らは宣伝に活路を見出すという、同じ結論に至った。
サヨクは知的エリート、受験エリートと言ったほうが正確か、が多かった。
隣人は蹴落とすものだった。
そこに湧いて出たのが日本罪悪論。
一も二も無く彼らはそれに飛びついた。

私は朝日新聞との距離の取り方を、アメリカ人ら白人が日本やその周辺の
状況を知っているかどうかを見る基準の一つに挙げる。
距離が取れていなければ私は「コイツは自分で調べない自分で考えない、
そういう人間なんだな」と見るわけだ。
もちろんまだ知らないだけ、調べていないだけという可能性もあるので
即断するべきではないのだろうがそういう人にはそういう発言に対する
冷笑こそが最上のプレゼントとなるだろう。
笑われれば自分を知る。
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