狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

代表

2011-05-23 10:49:33 | Weblog
少し前に政治家のジョークらしきものをネットで見た。
ある人物が与党の大物、まあ自民党の事だろう、に会わせてくれと頼んだと。
官僚にとりなしを頼んでみた。 しばらくして、断られたとの返答。
新聞記者にとりなしを頼んでみた。 しばらくして、断られたとの返答。
企業の重役にとりなしを頼んでみた。 しばらくして、断られたとの返答。
その政治家行きつけのバーのママに頼んでみたら会ってくれるとの回答。
私はこのジョークを作ったのは新聞記者なのではないかと見る。

ときどきカーステレオを大音量で鳴らしながら走る車を目にする。
耳にする、の方が正しいか。
街宣車の事ではない。
ワンボックスカーかスポーツタイプが多い。
軽自動車やトラックは記憶に無い。
カーステレオの音量を規制するべきだと思う。

こう書くと選挙カーはどうなんだという質問が来そうだ。
あれは一応災害時に役立つ。
パトカーにスピーカを乗っければいいではないかと言われそうだが
政治家もするべきだ。
定期的に見回る、そして住人の反応を知る。
必要だ。
見て回るのなら自転車でいいだろうと言う人もいると思う。
だが自転車の運転という物、結構忙しい。
そこから「見る」のは道路と周辺のみになるだろう、
実際サイクリングの途中景色を眺める人は、自転車を止める。
では徒歩は。
一日30km歩くとなるとそれだけで6~7時間。
一週間続けてで200kmしか見て回れない。
道を歩くことそのものは推奨するが、非効率だ。
それ主体ではおそらく全体を見るのは不可能になる。
残るのは車で、その上に立つのが見るのには最上となり、
住人の反応を知るためにはスピーカが必要になる。
政治家は地域の代表である。

靖国神社とヒロシマ教。
どちらが、どちらの死者が日本、旧が付く日本という国の代表か。
前者である。
外交官が出先で死ねば、その人がどれだけ下っ端であってもそれは
日本の代表として死んだことになるが観光客、商社マン、記者、NGOメンバー、
そのいずれも、たとえ百万死んだとしても、それは日本の代表にはならない。
まあ記者や商社マンの場合は会社の代表ではあるが。

クレーマーという人種がいる。
あえて人種と書く。
クレーミングをしている最中のクレーマーは自身をどう捉えているか。
おそらくは自分こそが代表だ、と思っている。
背後になんらかの権利集団が存在し、そこから選ばれた一人として
発言し戦っている、そう思っているのだと推測する。
代表幻想。
私から見てこれが高確率で当てはまる単語が幾つかある。
市民。 女性。 労働者。 弱者。 それと世界。

クレーミングをする国会議員の話が本に載っていた。
このケースはややこしい。
国会議員は実際に企業に対して消費者の利益を代表するものであり
消費者の不利益に対し是正措置を求めるという行動自体はその
存在理由に沿ったものであるとも言える。
政治家が私企業を見る、場合によっては試すのは本来の目的でありやるべき事。
そしてそのための手段は任される。
だがそこでやっている事はただの迷惑行動。
何処ががおかしいのか。
クレーミングという手段は代表権を持たない人たちのもののはず。
国会議員なら黙って帰り問題点をまとめ、党内なり官公庁なりで
議論すれば良く、よほどの緊急事態でもない限り現場で問題点の
是正を求める理由が無い。
これは代表に値しない代表の例だろう。
私が「平和の祭典」での尻出し選手を非としたのもこれか。
「平和の祭典」を謳った場でないのなら別に何の問題も無い、

私は時々自分を国民だと書く。
オタクだ、ネットウヨクだ、貧乏人だとも書く。 この方が多いか。
おそらく右派は国民発言を大勢居る国民の内の一人のものと取るだろう、
左派はどうか。
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衆愚

2011-05-23 10:48:37 | Weblog
あれが衆愚だ。
腹が立ったのでネットは叩かないと断言した。
だが私が叩く理由がネットという地域に出来てくればこれは
撤回する事になるだろう。

私にとってはテレビに近しいという事だけで十分叩く理由になる。
では何故ネットは私の敵にならないのか。
ネットの動きというのは個の集合であり、衆愚ではない。
衆愚という、各人自発的な動きだと思いながらも実際には流れが
固定化したものの一部でしかない、そんな類の物ではない。
固定化しない。
個が短期間で離散集合を繰り返す。
つまり固定化してくると叩く理由が出来てくる事になる。

ではテレビはどうか。
テレビ局というシステムが無くなったら叩く理由は無くなるのではないか。
そんな気もする。
もっとも電波放送というものが上流から流れてくるものを与えられる
大衆というものを前提としている以上、理由が無くなることはないだろう。

固定的で有る事が叩く理由なら何故私のテレビに対する書き方と
政府に対するそれとが違うのか。
家に例える。
政府がやっている事は分類するなら建築や外装の指導に近い。
他方マスコミ、特にテレビ放送業者が常時やろうとすることは内装の誘導だ。
家屋とはこうあるべきだ、というのは建材の消費や建築作業の効率化、
安全性や騒音、悪習、道路事情などの周囲との兼ね合いが関係する。
一見個の否定だがそこにあるのは他の肯定。
他方内装の誘導はあなたはこういう絵が好きだ、だからこの絵を
飾るべきだといった方向性のもの、要は流れ以外の他を否定する行動。
そして衆愚とはそう扱われることを望む人たちを指す。

ネットも使い様で衆愚になる。
例えばネット喫茶によくある例だがブラウザを立ち上げると
yahooのニュースサイトが最初に出る。
そこしか見ずそこしか参考にしない、そこに流れてくるものだけを
拾う行動様式が定着したらそこから先は衆愚しか無い。
まあ今のところネットの大半は場でしかなく、
そこに出入りする人が変わればそこの質も変わる。

衆愚こそ正しい、そんな状況になることは有り得るか。
有り得る。
なんせ神様のすることだ、正邪が逆転する事には定評がある。
どういう状況が思いつくか。
地上に正しい指導のようなものが存在し人が個々に動くよりも
その下に留まる方が良いとされた場合か。
そういう判断が下ったとき、私はそれに納得するか。
現状から直線で見ると否だろう、少なくとも直ちには。
私は信じる側の人ではなく疑う側の人だ、納得するまで問い考え続ける。
そしてそれに納得したら、その事を周囲に伝えようとするだろう。
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バカが保つ失敗の多様性

2011-05-16 10:24:03 | Weblog
外科的措置が必要な患者に対してカウンセリングだけをする。
医者と称する人にそれをやられたら多くの人は酒や麻薬に逃げるだろう、
これが対話なのだだそうな。
社会地位のバランスを保つことを最上とするとそういった行動が
妥当であるとされる模様。
では外科的措置が必要だと説明したら患者はどういった行動に出るか。

少し前にネットで面白い文章を見つけた。
勉強が出来るイコール賢いではないが、勉強が出来ないイコールバカ、
なのだそうな。
苦手な分野では誰しもバカを見るわけだが平均すれば学校でする勉強は
誰でも出来る簡単な事で、それが出来ないということは見ない、読まない、
理解しない、自分で考えない、といった行動様式が何らかの形で
身についているということになる。
知能順で中間値程度の小学生にセルフコーチングを教えたら
東大に行けるようになるか、という問いの答えは多分まだのはずだが
それはそれ。

見ない、読まない、理解しない、考えない。
見る。
状態がある。
メカニズムがある。
物体があり物体にとっての外部があり、その外部の一部が観測者の目。
読む。
書いた人がいる。
なんらかの理由があって書き、その情報が残る。
理解する。
情報の意味を知る。
それを再伝達可能になったとした時に理解したとする。
考える。
考えるってなんだ?
計算する、予測する、組み合わせを試す、明文化する。

見ない。
状態が目に入らない。
妥当かどうか、危険かどうかの判断が無い。
読まない。
書かれている情報を留めない。
誰かが書いた注意、指針を受け取らない。
理解しない。
受け取った情報をすぐ忘れる。
それを自分の中で意味があるものとしない。
考えない。
いや考えると言っても穴だらけだしなあ。
次に何が起きるかを予想しない、自分の中で物事を組み立てない。

バカは頻繁に失敗する。
頻繁に失敗し、それが直らない人のことを世間ではバカと言う。
流れの速い川があったとする。
入ると溺れる。
失敗である。
誰かが溺れた。
それによって周囲の人は改めてそこが溺れる場所だと認識する。

深い森があったとする。
入ると迷う。
失敗である。
入って迷うのはバカだろう。
ではそこに入らないのが正しいか。
バカは入るだろう。
そして稀に、何かを発見して帰ってくる。

バカがいないと失敗する人が減る。
間違って成功する人も減る。
それはそれで、危険でもありまた貧しい事でもあり。

賢いかバカか、といった尺度とは別に直感というものもある。
これはこれで謎なのだが。
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男女間の信号差と社会秩序

2011-05-16 10:23:40 | Weblog
社会ダーウィニズムとやらを20世紀までの植民地時代に当てはめると、
戦争の上手な帝国が適者として繁栄する、となる。
同様にそれを現在の移民時代に当てはめると、
繁殖力の旺盛な民族が適者として繁栄する、となるのだろう。
人間社会の環境は人間が作ったルールに左右される。
環境の適者も人間。 メカニズムとしては性淘汰の方が近そうだ。
孔雀主義社会、好きにすればいい。

男から見て大半の女は理解の外、不理解の側に居る。
女から見ても同様だろうと推測する。
でも男には性欲と支配欲があり、女にも性欲と被保障欲があると。
逆もあるだろう。 ヒモとドラゴンレディ。

男が性欲を満たそうとしたとする。
その場合一般的には女が必要ということになる。
現状何割程度の一般なのかは知らないが、手段は幾つか。
1. 町で買う
2. 自慰
3. ナンパする
4. 結婚する
5. 強姦する

これ以外には去勢する、解脱する、死ぬなどがあるかもしれないが
とりあえずここではそれらは外しておく。
1には相応の金銭、4と5は一生の負債が残ることになる。
経済的にリーズナブルなのは2と3ということになる。
信号差の問題が出てくるのが3のケース。

男がナンパする。 目的はセックスである。
結婚相手を探す場合もあるらしいがまあまずセックスだけが目的
と看做したとしても大きな間違いではないはず。
女がナンパを受ける。 目的は何か。
謎である。
だが男は女もセックスが目的だと看做す。
娯楽が欲しいのなら本屋でもゲーム屋でも運動場でも好きなところに
行けば良く、腹が減ったのなら飯屋に行けばいい。
社会的に最悪のコストパフォーマンスであるとされる女に手を出す
理由はトチ狂って結婚に興味を持った、という場合でないのなら
セックスしかない。
社会に出る年齢の人間ならそれが当たり前の常識のはず。

何が問題なのか判らなくなってきた。
ナンパ文化が強姦を誘発する、といった趣旨で書き進めるつもり
だったのだが。

男がナンパした結果ハンドバッグを買い与えてセックスしない、
こうした事例があってそこからセックスすると強姦になる、
ってどこがどう問題なのかやっぱり判らない。
女のタカリ癖に答えない男が問題なのだろうか。
女のタカリ癖に答えないといけないとする社会の風潮が
問題なのだろうか。
後者を問題とすると宝石商のユダヤ人が破産するだろう。
実はそれが問題なのだろうか。
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強姦婚社会をどう啓蒙するか

2011-05-16 10:19:24 | Weblog
西ユーラシアは強姦婚社会と姻戚統制社会が混在する地域と見る。
ただの偏見である。
だがとりあえずはそうだとして話を進める。

強姦婚社会。
珍しいものではないのだろう。
最初のセックスで女が主導権を握る例がどれほど一般的か。
布教という行為が一般化する前、ジャングルと表現される時代では
そうでなかった地域は稀だったはず。
そうした社会に外部から布教者が来たらどうなるか。
抵抗がある。
家族制度は社会の根本であり、そこにいる旧人たちは
それこそが我々のアイデンティティーだと主張するだろう。

布教が成功しその地域は宗教化されたとする。
どうなるか。
強姦の定義というものは究極的には個人の内部にしか存在しない。
それを外部が定義付けするのなら婚外性交すべてがそれ、
というのが唯一判断可能なものとなるはず。
セックスする当事者以外の人たちが強姦かどうかを判断する基準は
結局そこに落ち着くか、補償を求めて二転三転する淫売の言い分を
信じるかの二択になる。
では何が結婚か。
二転三転する淫売の言い分を否定するとなると直近の社会責任者
つまり家長が認めたものが結婚だ、となる。
結婚制度とはもともとそういうものだったと。

別の社会もあるだろう。
結婚の承認を宗教界に委託する、一定形式の婚外性交を容認する、
結婚制度、これは家族制度とイコールだったりもするが、を無くす、
などが考えられる。
それぞれ考えるに面白いものだがひとまずは置いておく。

さてジャングルが布教されたとする。
強姦婚社会が宗教化された地域。
そこに強姦は残っているか。
そりゃあるだろう。
強姦婚社会を無くそうとしたらその直近は姻戚統制だ。
そこでは家長が認めたものが結婚となる。
強姦があった。 家長はどう判断するか。
強姦した男を処罰し強姦された女を処罰の理由としてさらすか。
あるいはそうなった理由を酌量し適当に罰を与え結婚を承認するか。
後者の場合、結果的には強姦婚社会の風習が残ることになる。
家長が残した。
宗教の衣をまとった強姦婚社会。

布教活動の中央に近い場所にそれが残るケースというのは
恒常的に残すという判断がある場合だろう、それは単なる不努力
あるいは布教中央がそういう性質のものだっただけかと。
中央の文化とは逆の状態が辺縁に残る。
方法論を考えるとするならそちらの方だろう。

遠方、辺境に位置する二重化した強姦婚社会はどうすれば無くなるか。
幾つか考えられる。
1. 布教者を忸怩派遣する
2. 任意に啓蒙家を行かせる
3. 地域の活動家に任せる
4. その地域の独裁者に任せる
5. 征服し支配することで秩序化する

1が一般的な世界宗教の宗教努力。
2は推奨すれども何もせず、といった状態か。
3も一般的なのだろうが放任に近く、最悪不安定化努力にも。
4が独裁者と方向性が一致するのなら一番確実か。
5はそのまんま。 成功すれば啓蒙に関しては最上の結果が得られる。
2と3を併せたものがいわゆる扇動、3から4へと進むのが破壊工作。
こうして見ると一番穏当なのが1ということになるが
これには布教者を当地で死ぬに任せる、という面があるわけで。
死んでなんぼ、ある意味でそれが布教の正しさなのだろう。

布教によって出現した文化集団が旧人勢力に攻撃されたとする。
ここに「布教者の死」に見る正しさは有るか。
否と見る。
一人ただ死んだのではなく文化化し集団化した挙句のこと、
これはただの戦争でありどちらが勝者となったとしてもそれは
ありふれた戦争の結果の一つでしかない。
布教元がこれを支援するのならそれは侵略だ。
それなら布教と言うな。
征服事業と言え。
そこに正しさがあったのだと主張するのなら
それが正しい征服事業だったのだと言え。
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国民の向きを対角線標準化で測る

2011-05-16 10:10:49 | Weblog
日本を対角線で見る。
北九州・東京ラインと北海道・沖縄ラインとが見える。
前者は現代日本に詳しい人ならピンとくるだろう太平洋ベルト地帯。
新幹線が走っている。
東京の反対側を出雲とすると神道ラインに。
新潟周辺日本海側や佐渡島なら動物保護ライン、あるいは北朝鮮ライン。
後者に宮崎、高知、東北日本海側を見れば田舎ラインとなり、
両端の那覇、札幌と中央付近の大阪を見ると左傾化ラインとなる。
右派は田舎と工業化の交点こそが日本の現状だとし、
サ派は特定の場所だけを見、自分たちこそが日本の本質だと認識すると。

アメリカを対角線で見る。
アラスカ・テキサスラインとニューヨーク・カリフォルニアライン。
前者は対外戦争の色彩が強い一方で標準化は進んでいないと思われる。
後者はゴールドラッシュラインになっている。
前者を重視する人は地域の多様さこそがアメリカの本質であるとし、
そして後者を重視する人は前者をレッドネックとするのだろう。
ハワイはゴールドラッシュラインの延長上にあるように見える。
そこから線を伸ばすとフィリピン、そして中国。

欧州を対角線で見る。
イギリス・ギリシャラインとフィンランド・ポルトガルラインが見える。
前者をクラシカルラインとでもするか。
後者はスペイン・ポーランドとするとユダヤ人の移動になっている。
イギリスがギリシャを助けていたとしたら欧州に国民が
誕生していた可能性もあったとも見れるが、結局それは起きなかった。

中華人民共和国。
ウイグル・台湾ラインと満州・越南ライン。
前者の多様性は無視される政治的方向性があるように思われる。
中国人の考える政治正統性、これはこれで一つのテーマ。
後者は第二次世界大戦ラインだ。

対角線に限る話ではないが歴史的に地域文化標準化が起きた線に沿って
共通意識のようなものが育つと。
これが地図上で対角線状つまり南北方向の地域文化差、東西方向の
経済的利害対立を超えた共通性だとして意識されることになる。
それが地域、国を横断するものになっているとその文化を特別視する人たちは
それこそがその地域、その国の標準であると認識する、あるいは誤認する。
そうした傾向があるように見て取れる。

地図をもう少し広げてみよう。
アジア太平洋地域。
モンゴル・インドネシアラインと日本・ミャンマーライン。
繋がりは第二次世界大戦となるわけだがその真ん中に中国があると。
地域の中央と文化とが相反する形になっている。

西アジア。
ロシア・インドラインとカザフスタン・サウジアラビアライン。
後者はイスラムラインと取れる。
前者は社会主義ラインか。

アフリカ大陸。
モロッコ・マダガスカルラインとエジプト・コンゴライン。
なんの繋がりも見えてこない。

南米。
エクアドル・アルゼンチンラインとブラジル・チリライン。
前者はチェ・ゲバラ氏の線だろうか。

太平洋。
日本・ペルーラインとアメリカ・オーストラリアライン。
地球を半周する距離だ。
正直遠すぎてなんともだが、豪州人は北米を意識するのだろう。

最後に世界地図。
世界で標準的に使われているのは欧州が中央上部に来る物。
太平洋ラインを裏返した形になる。
アメリカ・オーストラリアラインと日本・ブラジルライン。
前者がハリウッドの世界なのだろう、その文化圏に属する人たちにとって
それはまさに世界標準であってしかるべきもの。
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スープの腐る距離

2011-05-04 17:35:09 | Weblog
なに大した話ではない。
発信源が新聞かハリウッド映画かはともかく今でもイギリス人は
それを見たら「鉄道だ」と言うのだろう?

親が学習塾は役に立たないと判断し、
子供をそこに行かせる事を止めたとする。
よくある話だ。
その時それを決めた親が周囲に対しこう言ったとする。
教育という慈善事業を止めた、と。
これは子捨て宣言に近い。
これまで塾通いが自分のためになっていると聞かされてきた
その子供にとってそうなる。

日本の保守派に親韓派が多い。
私はこれを悪癖だとしている。
何故そこまでナイーブなのだと首を傾げてはいるが
それを不快とはしていない、少なくとも1980年代まで
北朝鮮を礼賛していた左派のそれほどには。

どんな時に慈善事業であると強調する必要性が発生するか。
甲にとって任意の関係を乙が義務であると主張した時か。
任意の関係に対して補償を求める事を日本ではタカリであるとされ、
そういうことをする人は嫌われる。

東京から北海道へはスープの腐る距離か。
否とする。
大阪から沖縄へはスープの腐る距離か。
違うだろう。
最初から腐っていたというのならありそうだが。
江戸から蝦夷へはスープの腐る距離だったか。
当時はそうだったのだろう。
今日は文化距離が縮まった、そう言える。
住人が変わったからとも言える。
では薩摩藩から琉球へはどうか。
微妙だ。 だがどちらかというと腐らせないことが可能な距離と見る。
長州藩から釜山はどうか。 どちらかというと腐る距離と見る。
今日の東京からソウルはどうか。
東京とソウルの町並みを見比べてみればいい。
似ているのなら生活文化上の問題点も多くが共通しているはず。

金帰火来と言うそうな。
国会議員が金曜日に地元に帰り、火曜日に東京に来ることらしい。
政治家が週単位で行き来しても問題の無い距離。
スープの腐らない距離とは人と人とが毎週顔合わせすることの出来る距離、
とするとこれがそうなのだろう。
日本の場合は片道最大で5時間ほど。
6時間を越えるようなら移動一日、滞在一日、移動一日、滞在一日、
これで四日、情報伝達以外の業務はほぼ出来なくなる。
交通事情が乱れただけでその週の予定が大幅に狂う。
週単位で問題点が伝わることは無くなっていくだろう。
欧州から中央アジアまでは12時間くらいではないかと思う。

では物理的な距離があるにもかかわらず政治が機能する場合とは
どういったものか。
文化距離が近い。 生活に必要なものが似通っている。
情報距離が短い。 通信による対話に翻訳を必要としない。
そうした状況を人為的に作り上げるというのはどうか。
中央集権化が可能になり、政治コストが下がる。
メリットはある。
ただしこれは砂漠に住む人に北極圏に住む人と同じ生活をさせる
ということになる。
どの道スープは腐るだろう。
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啓蒙

2011-05-03 14:32:17 | Weblog
イギリスが「移民という慈善事業を止める」と言ったとか。
難民なら慈善事業だろう。

「カイジ」という漫画がある。
そこに主人公が地下で穴掘りをして暮らす場面がある。
マレー人が見たらどう思うだろうか。

日本は盆栽だ。
私は日本人で良かったと思って生きてきたし、今もそう思っている。
この事実が剪定に対する私の答えになっている。

日本のネットでは最も誠実な移民制度はシンガポールのそれだ
と言われている。 
なんでも受け入れる時に使い捨てだと明言するのだとか。

イスラム教徒の骨を教会の入り口に埋めた神父だか牧師だかの
話を書いた。 教会の人たちはそれは例外だと言うだろう、
だがイスラム教の人たちから見るとそれが目の前のキリスト教。

漂流した東大教授に生活の仕方を教えるのが有能化で
思想の布教が啓蒙だと書いた。
両極端はこれでいいだろう、では境界線はどのあたりか。

アフリカに蚊帳を配ったら魚採りの網になっていた、
という話を目にした事がある。
蚊帳の配布に伴い使い方を、何故それが必要なのかを説明することは
啓蒙だとされている。
それを網にしてしまったアフリカ人は説明が理解出来なかったか、
とりあえず理解したが不要と判断したか、あるいは単に
使ってみたら寝苦しかったから使わなくなったのか。
知識と実感の差。

自動車運転技術の習得で見てみる。
鉄道網の発達した日本でも田舎での生活に車は必須だと言われている。
一方日本を含む多くの国で運転免許の取得は任意。
車の運転を知らない人が居ない様にしようとし、それを義務教育に
組み込んだとする。 これは啓蒙か。 啓蒙だろう。
田舎での生活を始めようとする都会の若者に、そこでは車が必須だ
と教える事は啓蒙か。 啓蒙活動だとされている。
運転免許を持たずに田舎で生活を始めた若者に周囲の人たちが
運転免許を取得させる事にした。 これは啓蒙か。
これは有能化だ。

直近の必要性が高い技術を習得させることが有能化、
個々人の必要性ではなく一律に知識を持たせることが啓蒙。
こういう分類と出た。

どうしたら蚊帳は普及するか。
アラスカに蚊帳は必要ないだろう、一律普及といった考えは
無駄なので捨てたほうが良いと思う。
マラリアで死ぬ家と蚊帳を使うことで死なない家とが出てくれば
自然と必要性は理解される。 その差が出ないのなら逆に
それは必要無いか防疫上の有効性に欠けるかのいずれかだ。

子供が死ぬだろう。
社会が子供が死なないようにしないのは政治が無いからだ。
それが政治だという発想が生活の中に無い。
ではどうする。
最も効果的な啓蒙活動は征服事業だろう。
次が開発独裁か。
中国政府はチベット人を啓蒙していると言っている。

啓蒙が必要そうに見える人たちが居たとする。
実質二択だ。
侵略し、子供を死なせる人たちを罰するか、
あるいは彼らが違いを知る機会を待つか。
前者の最良が併合だ。 啓蒙を望むのならそうしろ。
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私がやっていることは啓蒙活動なのだろうか

2011-05-02 20:16:10 | Weblog
日本共産党に謝罪しなければならない。
政権交代後に提案しなかったのは粗探しだったとしたが、
再度提案していたらしい。
私の確認不足でした。
ごめんなさい。
こうなった理由を言い訳させてもらうならここ一、二週間か、
共産党がこう言ってたから自民党が悪い、といった言説を
ネットに振りまいている一団を目にしてムカついたから。
いわゆる「応援団」なのだろう彼らはここに至ってなお
ライバルを貶める、引き摺り下ろすことしか考えていない。

国民国家とはどういったものかを考えていたら
「我々が民主主義である」と称する公務員集団は
その精神をはずれて自己目的化した存在だとの結論に至った。
機能している民主主義を国民による国家とイコールで結ぶと
日教組のような組織は正しく民主主義のガンである、となる。

団塊世代には民主主義が与えられた。
バブル世代には資本主義が与えられた。
国民国家を与えられたのは氷河期世代だが
上の世代はそれを知らない。
どうやら国民国家とは全員参加ではなくとも機能するらしい。

有能化と啓蒙の違いは何か。
東大教授を含む集団が無人島に流れ着いたとする。
集団の中に居た農民や釣り好きが東大教授に畑の作り方や
魚の採り方下ろし方を教える、これが有能化。
平和な後進国にマルクス教を持ち込むような行動が啓蒙。
トップダウン式とボトムアップ式の違いとも言えるが
現状社会が機能しているのならトップダウンに価値は無い。
外部の人間にその状態が奇異に見えたとしてもそれは不理解、
啓蒙活動が必要な状態とは無政府状態を指すのだろう。

朝日新聞は何故ああなったのか。
優等生とは何かをそこに当てはめると左派的とは自我肥大
なのだとなる。
つまり朝日新聞がああなったのではなく、ああなった人たちが
集まりやすい場所の一つが朝日新聞だったのだ。

無理解と不理解の違いは何か。
理解を前提とし非難するものが含まれるのが無理解。
不理解という日本語は私の知る限りでは無いなずだが
相互に理解不能で有る事を前提とした関係がそうだとした。
人には人の、ネコにはネコの世界があり人とネコとが互いに
理解しあうことはまず無いが、共同生活は可能。

人権といった概念をどうするか。
とりあえず放置するか、すぐ捨てるべきか。
児童就労を例に考えてみる。
以前扱ったが児童を就労させるのは人権侵害である、とされている。
その時どのような結論を出したか良く覚えていないが
少なくする方が良いあたりの方向性ではなかったかと思う。
先進国の人間が後進国に行ったとする。
そこに児童就労があったと。
その人の母国では人権侵害であるとされる例。
ではどうするか。
人権侵害であると騒ぎ立て本国あるいは国連に介入を要請するか。
私はそうした行動を否とする。
まずはその児童が悲鳴を上げているか、この一点。
悲鳴を上げていないのならば放置しても問題無いとする。
ピカソ氏が、アインシュタイン氏が、マラドーナ氏が
材木運びをする。
それはそれで、良い社会であり得る。
では悲鳴を上げているかどうかはどうやって見分けるのか。
適当に。
他に無い。
常時悲鳴を上げている人、過去の恨み辛みだけを延々語る人は、
私ならそのまま捨てておくべきだと判断する。
基準が無いではないかと言われそうだ。
その通り、基準は無い。
逆に問おう、何故今まで基準が必要だとされてきたのか。
それをどうするかという問いに対する答えが出た。
人権とは懲罰のための概念。
貴族のルール転じて罰する基準。 ありがちな。
基準から外れた人を糾弾し罰することを目的としたものだった。
今日の社会が裁判所と刑務所を必要とするのなら
人権もまた必要なのだろう、その辺においておけばいい。
人権活動家とは人民裁判を要請する声。
人民裁判とはいかなるものか。

西洋社会というのは常にトップダウン。
価値観のすべてがトップダウンに基づいている、
とりあえずそうしておく。
その上に西洋式大衆運動というものがあるとすると
それが意味するものは下克上だ、となる。
ボトムアップ色の強い社会ではその手の運動は白眼視される。
まあそりゃそうだ。
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