狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

共産主義について

2010-06-10 14:30:04 | Weblog
ケンカせど
飯を欠かさぬ
親心
されど子供は
盛りいぶかしむ

以前、昏睡状態と診断されながらも実は意識があった、
とされる人のニュースを紹介した。
ネットでそれを見た人は「なんて不幸なんだ」と反応していたが
私は案外快適なのではないかと書いた。
元のニュースは誤報というか、関係者の希望的観測だったらしいのだが。

尻が痒い時は尻を掻く。
尻を掻けないのは不幸だろうか。
まあ掻けるのに掻かないのは修行の類だろう。

怨嗟の声に見る、赤ん坊の世界を考える。
暑い。 寒い。 カサカサする。 ネバネバする。 チクチクする。
ブヨブヨした体が重い。 動かし方もよく判らない。
常に轟音がし、痛いほどまぶしい。
頭の中は雑念の反響でいっぱいなのに時間だけは無限に長い。
最初の数日か、はたまた数ヶ月の地獄。
人はそれを経験し、そして覚えておらず、
経験中の人を見て「幸せそうだ」とほざく。
まあ地獄だというのも想像に過ぎないが。

さて共産主義について。
共産制は正しい、と言ったら驚かれるだろうか?
家族制は概ね共産制でありそういう意味で正しいと。
多く働く人が居る。
少なく働く人が居る。
働かない人も居たりする。
それでもみんなが食べる。
これが共産制。

幸せな人を想定し、なぜ彼らは不幸な人を救わないのかと言う。
不幸な人を想定し、なぜ彼らは幸せな人に救われないのかと言う。
そうだ共産制にしよう、と言う。

それの一つが書いている私の目の前に今あり、
読んでいるあなたの目の前に今ある。
インターネットのコンテンツというのは、多くが無料である。
最近有料化の動きが増えてきているが、基本タダ。
みんなが少しずつ出し合う。
何も出さない人も居る。
でもみんなが受け取る。
共産制。

では共産主義はどうか。
私の意見はこうである。
共産主義は一方向で正しく、逆方向で間違っていると。
こう書こう。
実践するならサルでも出来るが要求するのは泥棒だ。

幸せな人を想定し、なぜ彼らは不幸な人を救わないのか、と言ってみよう。
不幸な人を想定し、なぜ彼らは幸せな人に救われないのか、と言ってみよう。
満足したか?
あなたはただそう言っただけなのだが。

共産制の実践は誰でも出来る。 今すぐにでも出来る。
やる人も居る。 やらない人も居る。

共産主義者とはどういう人か。
やれと命令する人である。
それがやる人であるとは限らない。

国家共産制でなければ意味が無い、と言われるかもしれない。
ではこんなのはどうだろう。
タックスヘイブンに同好の士10万人ほど集まる。
そこで企業でも結社でも作り、組織内でインフラでも福祉でも実施する。
相当程度、外交と処刑制度以外ほとんど国家に近いことが可能と見る。
1万人でも実施できるかもしれない。
さてそれが成功したらどうなるか。
周囲がそれに対し「分け前をよこせ」と言い出す、
あるいはそれまでの経緯から「悪の集団」と罵るか。
それの答えが「必要だったのだ」なら、私はそれを褒める、かもしれない。

さて問題だ。
赤ん坊が居たとする。
眠っていると。
ある人は暑いだろうと思ってかかっていた布団をずらした。
ある人は寒いだろうと思って布団を増やした。
これらの行動は正しいのだろうか?
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