言語とか

2020-10-05 09:26:10 | Weblog
前回の。
「身体障碍者の労働環境」と置いたとする、障害者側からの主張には「要所ですこし道幅を広げれくれれば健常者の七割程度のアウトプットで社会貢献できるよ」というものと、「自分たちにも働いているフリをさせろ、そして健常者と同等の給料を寄越せ」というものとがあるのではと。 前者の割合は結構多いんじゃないかと思うが、政治や報道がもっぱら取り上げるのは社会党、労働党、民主党支持者らのような後者だろうと。

障害者云々のテーマを思いついたのは障害者云々を考えていたからではない。 貢献や必要云々からではあったか。

言語。 私は言語体系、日常会話のそれと、プログラミング言語なんかもだ、を、因習と感じ続けている。 コンピュータ言語の場合は「こういう共通語があったら様々な作業が実現するのでないだろうか」といった試みと、その上に出来た「こうしろ」という押し付けお仕着せとがあり、あちこちで後者が優位になっている、そういう感覚。

おそらく言語の問題点を二通り見ているんだな。
・合理化が足りない
・詐欺手法が蔓延っている

後者の方で統一言語を求める連中を懐疑的に見ている。
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歯車としてありたい障碍者、みたいな人の感性

2020-10-05 08:08:43 | Weblog
結構重要かもしれないと思ったので書き残す。
身体障碍者、例えば車椅子の人間は、社会の歯車になりたくとも「不揃いの歯車」にしかなれない。 そう感じながら生きる。
「能力を発揮する仕事」となると大半のそれにとってはデスクワークとなる。 ここに、「釣り合わなさ感」が付きまとう。 大部屋でのデスクワークだと居るだけで場所を取る自分、物を床から棚へと持ち上げたり出来ない自分、移動に配慮され続けている自分が、常にある。
これが肉体労働だと釣り合うのだ。 「無能な自分」に対し、「やや少なめのアウトプット」となり、作業結果が見て取れる。
月給20万のデスクワークと、月給15万の、トングなりマジックハンドなりで道端のゴミを拾い歩く清掃業、多数の車椅子の人間にどちらを選ぶかを聞いてみたとしよう、それなりの数の人間が後者を選ぶだろうと見る。 別の例でも考えてみよう、月給22万のデスクワークと月給18万デスクワーク、内容も条件も似通った選択肢。 結構な数の障碍者(障害者の字でいいんじゃないかと思う)、一割か半数近くかは判らないが、が適当な理由を言って後者を選ぶのではないかと。

コンプレックス、と言っても間違いではない。 ただ見た目等が劣る事へのそれとは違い、こちらのそれは社会のバランスへの責任意識であり、本来あって良いもののはずなのだ。
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