狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

善、予測、教条主義

2018-09-26 11:48:47 | Weblog
「善ってなんだ?」という問いの答えを私は「全体のそれぞれにとってより良い状態を願う事」とすると。 なんでこうなるのかを言うに、「一部にとってのみ良い事を願うのは善ではない」とするから。
単に「全体の良いを願う」だけならパッと考えて難しい事ではなさそうだと。 だが、より具体的に「どうする?」と問われるとなると途端に難しくなる。 ここに予測が入る。
孫が十人いる老人が居たとしよう。 孫それぞれに、クリスマスプレゼントを買うと。 一人一人の状態を思い浮かべ、喜ばれ、且つ悪意の側悪事の側に転ばない何かを見繕っていく事となる。 これは善行か。 その老人と孫たち、狭い関係でならばそうだろう。 だがその外側については定かではない。

予測をしないモノがするモノに「何が善行か」と聞いたとしよう。 予測をするモノは、相手が予測をしないモノである事から簡単な答えを聞かせようとする。 例えば「きれいな空気や水を与えるような事である」と。 これはこれで、それなりに「何が善行か」の答えになっている。 だが予測しないモノたちがその「単なるその場の答え」に固執する事はどうか。 彼らのそれは「より良い全体を願う」事になっていない。 さらには、与えられた答えを以って、部分により悪い状態を願う事も可能である。
「他のモノたちにより悪い」を願うモノたちが教条主義に陥るのか。 世間に多く見られるな。
コメント
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