大佗坊の在目在口

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高岡 瑞龍寺

2019-08-07 | 

「曹洞宗高岡山瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺である。利長公は高岡に築城し、この地で亡くなった。加賀百二十万石を譲られた義弟利常は、深くその恩を感じ、時の名工山上善右衛門嘉広をして七堂伽藍を完備し、広山恕陽禅師をもって開山とされた。造営は正保年間から、利長公の五十回忌の寛文三年(1663)までの約二十年の歳月を要した。当時、寺域は三万六千坪、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭の姿を想わせるものがあった。国の重要文化財として、指定されている建造物は、総門、山門、仏殿、法堂、明王堂(現僧堂)、回廊であり、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されている」。長々と瑞龍寺のサイトから引用させてもらった。
 
  
仏殿、法堂、山門は平成9年(1997)、国宝に指定されて、昭和3年から平成9年にかけて、総門、禪堂、回廊、高廊下、大茶室が国の重要文化財に指定されている。
 
 
文化庁の解説に「延享三年<一七四六>に山門と回廊の前半部分及びその脇にあった禅堂などが焼失したが、江戸時代後期にほぼ旧状の配置で再建され、 山門は創建時の大工山上善右衛門(加賀藩御大工)の後裔にあたる大工が建てたもので、禅宗様の手法になる三間一戸の二重門であり、古式な手法をもつ。鳥蒭沙摩明王堂(旧禅堂)や高廊下、回廊は伽藍を構成する重要な要素である。当寺は大規模な曹洞宗寺院の中でも、整備された伽藍配置をもっともよく残すものの一つであり云々」とあった。法堂の左手回廊に外に出られるところがあった。なにがあるのだろうと向かうと、石廟が五基並んでいた。
 
 
前田利長宝篋印塔
 
前田利家                 織田信長
 
織田信長側室               織田信忠
 
国指定重要文化財僧堂
 
 
前田利長は本能寺の変後、織田信長父子の分骨を迎えてその霊を慰めたと伝えられ、利長の菩提寺瑞龍寺を造営したとき、開山広山恕陽禅師が利長父子も加えて同じ形式の五基を建造したのが,この石廟で、向かって右から前田利長(高岡開祖)、前田利家(加賀藩祖)、織田信長(利長室玉泉院父)、織田信長側室(正覚院・利長室永姫生母)、織田信忠(信長嫡男)の五人の霊廟だという。前田利長墓と瑞龍寺、それを結ぶ八町道、みな向きがバラバラで気になっていた。織田信長親子の石廟がいつ造られたかわからないが、八町道の延長上に瑞龍寺山門があり、さらに延長するとこの石廟にぶつかるのではないだろうか。瑞龍寺山門と法堂を結ぶ線が東西軸から五度北に偏っている。利長墓所と瑞龍寺石廟を結ぶ参道が八町道という事になる。そうすると利長墓所の正面は何処を向いているのだろうか。5度傾いている瑞龍寺中心線と利長墓所からの延長線と直角に交わる延長178.8kmの先にあったのが、前田氏発祥の名古屋荒子城、高岡城と利長墓所を結んだ200km先にあったのが岡崎城、利長祖父の菩提寺、能登七尾の長齢寺を結ぶと高岡城を通る。高岡城と瑞龍寺の延長上、266km先にあったのが大坂城、前田一族の居城だった越前府中城(現越前市役所)と瑞龍寺を結ぶ延長上に高岡城がある。これはGoogleマップの距離測定での計測と高岡城の正中点が不明で、利長墓所と瑞龍寺と比べて高岡城の面積が大きく、遠方から利長墓所、瑞龍寺を通過させると、おおかた城にぶつかるという欠点はあった。金沢でも城の向きが不思議に思っていたので、金沢城小立野口から真っすぐ延びる小立野通の234km延長先にあったのが静岡駿府城、金沢城の真南に伊勢神宮内宮(経度0.065度差)があった。加賀百万石と言われた金沢藩も創成期には色々な所に気を使い存続に大変だったのだろう。

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