大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

東近江 永源寺

2015-10-30 | 

琵琶湖の東側にある天台宗寺院、いわゆる湖東三山(西明寺、金剛輪寺、百済寺)を巡ったあと、滋賀の近江八幡市と三重の四日市を結ぶ八風街道(今の国道421号)の途中、愛知川(音無川)と堂後谷がぶつかる山裾、日本コバという珍しい山の南麓に愛知川に沿うように境内がある臨済宗永源寺派大本山である端石山永源寺を訪れた。
 
康安元年(1361)、近江国の領守佐々木氏頼が、この地に伽藍を建て、寂室元光禅師を迎えて開山され、瑞石山永源寺と号し、中世戦乱期に兵火により山上の寺院悉く焼失したが、江戸時代中期に中興の祖とされる一糸文守禅師(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇や彦根井伊氏の帰依を受けて、伽藍が再興された。愛知川に掛けられた橋が旦渡橋、堂後谷に掛る大歇橋を渡ると羅漢坂の石段になる。
 
数えた訳ではないが、この石段、120段あるという。途中の岩山に石仏が奉安されていて、すこし不気味に感じる。
 
石段を上りきると、左側に井伊家の墓所がある。墓所には後で寄る事にして、総門から山門を潜る。庫裡の横に郵便ポストが設置してあった。境内に郵便ポストがあるのを見たのは比叡山延暦寺以来だった。方丈や法堂できびきびと作務を行っている若い修行僧が印象的だった。
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
井伊氏の墓所は慶長七年(1602)、井伊直政の死去により墓所として創建され清凉寺(初代直政、三代直澄、五代直通、七代直惟、八代直定、十一代直中、十二代直亮の歴代七藩主)、江戸における菩提寺として彦根藩領にあった豪徳寺(二代直孝、六代直恒、九代直、十代直幸、十三代直弼、十四代直憲の六藩主)、四代藩主直興は永源寺南嶺慧詢に帰依したため、側室と共に永源寺に葬られている。
 
 
 
寛政重修諸家譜に直興の子は十二人、側室も十一名の記載があった。家譜に残らない側室も居ただろうから、これでは羨ましいと言うより、藩主も日夜、大変だなと云う感じが強い。直興側室で五代直通、六代直恒、七代直惟の生母と陽光院、四人の側室は東京豪徳寺に埋葬されている。永源寺の井伊氏墓所で確認出来たのは三基の墓石だけで、直興と二人、どの側室が埋葬されているのだろうか。

   

コメント
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