大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

琵琶湖 湖東三山(金剛輪寺)

2015-10-16 | 

西明寺から金剛輪寺に向かう途中、斧磨という地名があった。
おのをみがくと書いて「よきとぎ」と呼ぶと言う。斧の刃に沿って彫ってある溝を樋(ひ)といい、
右面(刃が右向き・表)四本の樋をヨキ、左面(裏)に三本の樋をミキと呼び、合わせて「七つ目」と
呼び、呪術的な意味を持たせているという。斧を「よき」と読ませるもの知らなかったが、
歴史の古い地域を旅すると意外な発見があるものだ。
 
金剛輪寺の号は松峰山、天平十三年(741)、聖武天皇の勅願で行基菩薩により開山、
国宝の本堂は近江守護職・佐々木頼綱により建立された。三重塔、二天門は国指定重要文化財、
金剛輪寺本坊の明寿院庭園は国の名勝庭園に指定されている。
惣門から本堂に向かう参道の途中に明寿院があり、その先の参道両側にお地蔵が
ズラリと並んでいて、奇妙な不気味さを感じる。
 
 
二天門
  
 
 
明寿院はかつて学頭所として使われた建物だったが、昭和52年(1977)の火災で焼失、
その後に再建されたものですが、幕末の安政年間に造られたという茶室「水雲閣」は焼失を免れ、
現在に至っている。
 
 
 
水雲閣

この「水雲閣」は幕末の「赤心を持って国恩に報いる」から名付けたという「赤報隊」
挙兵の場としても知られている。挙兵は山科元行が中心となり綾小路俊実、背後には
松尾但馬(松尾社祠官子で山科元行弟)を通じて岩倉具視がいたとされる。
金剛輪寺が挙兵の場所となったのは、京都門跡院曼珠院の末寺で、曼珠院家人
山本太宰(のち処刑)によるもので、当時多くの僧堂があった金剛輪寺は多人数を
収容するに都合がよかったのだろう。

赤報隊を離れた山科元行は、のちに明治天皇の侍医となった。孝明天皇の死亡が
天然痘によるものと証言したのが、この山科能登介(元行)です。
百済寺に向かう。
        


琵琶湖 
湖東三山(百済寺)
琵琶湖 湖東三山(西明寺)

コメント
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