大佗坊の在目在口

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旧会津藩士大竹作右衛門

2011-05-18 | 會津

会津若松市政だよりに、小樽市との縁(えにし)は旧会津藩士大竹作右衛門元一が、日本泳法「向井流水法」を小樽へ伝えたことに始まるとあった。文化七年の会津藩が江戸湾警備を命じられた際に江戸で向井流水法を学び、日新館でも指導がおこなわれ、元一は小樽で回船業を経営しながら明治二十九年水泳場を小樽高島に開設し向井流水法を伝えている。

幕末、御聞番所物書だった大竹作右衛門は各地を転戦、戊辰後は東京にて謹慎、明治三年秋、斗南五戸村に移住している。いつ小樽に渡ったか不明だが、十三年に船名高嶋丸の船旗章を海軍省に届けている。この船旗はかっての奥羽越列藩同盟の同盟旗と似た五芒星の中に五稜星を描いている。明治十四年船名録により風帆船札幌丸七十六トンを所有していたことが判る。開拓指鍼北海道通覧に小樽大竹回漕店とあり、旧会津藩士で明治六年に北海道に渡り、のち小樽商業会議所会頭から小樽区の衆議院議員に当選した高野源之助も回漕店の経営に参加したというがはっきりしない。

(奥羽越列藩同盟旗)

1左、明治十三年六月廿一日付 高嶋丸旗章所有者大竹作右衛門

2右、明治十三年六月廿七日付 札幌丸旗章所有者後藤半七

 

1、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C09114742700

  開拓使届 大竹作右衛門所有高嶋丸旗章

2、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C09114733700

  開拓使届 後藤半七札幌丸旗章

 

 明治二年、札幌に開拓使札幌府は設置され、北海道開拓は小樽を拠点として進み、明治十二年に開山した幌内炭鉱の石炭積み出し港として、小樽港牛宮埠頭より札幌を経て幌内炭山に至る鉄道はその運炭のため明治十五年の竣工で、より発展していった。

明治十六年、大竹作右衛門は小平蘂川流域石炭調査を行い、明治二十年にヲキナイ上流石炭開採を手掛け、さらに十七年七月(十六年六月とも)、余市郡沖村の湯内川上流で湯内の樵夫中村留吉、竹内孫兵衛、小黒喜三郎が谷間に光る石を発見し、その鉱石が銀銅鉱らしいということで小樽港の大竹作右衛門と共同にて明治二十一年試掘出願し、二十二年四月に北海道鉱山会社にて借区開坑した。この湯内鉱山はのち昭和にはいり住友合資会社に買い取られている。

幕末か明治初期か、時期は特定できなかったが、この旧会津藩士大竹作右衛門の養子にはいったのが、のち千住製絨所五代目所長となった大竹多気。多気は旧会津藩士松田俊蔵四男(文久二年生)で松田俊蔵も謹慎後、大竹作右衛門と同じ五戸村に移住、妻きつ、長男精介、三男寿三郎、五男甲子五郎の五名が斗南貫属として登録されている。

 

コメント (2)
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