大佗坊の在目在口

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六郷満山の旅 富貴寺から真木大堂

2010-12-04 | 
国東半島には六郷と呼ばれる武蔵、来縄(くなわ)、国東、田染(たしぶ)、
安岐(あき)、伊美(いみ)の六つの郷が開け、ここに多くの寺院が築かれた。
学問をするため本山、修行をするための中山、布教のための末山の三つの
群に分けられ合わせて満山と呼ばれ、国東半島の寺院を総称して六郷満山と
呼ぶようになったと言う。



国東半島では、山岳信仰が、宇佐神宮を中心とする八幡信仰と融合し
神仏習合の独自の山岳仏教文化が形成され、六郷満山と総称され、
天台宗の密教寺院が多く築かれ、盛時には六十五もの寺院があったとされる。
六郷満山は本山、中山、末山の三群に分けられ、さらに本寺(二十八寺)と
末寺(三十七寺)に分けられるという。

宇佐神宮から満山を統括した西叡山高山寺の末寺とされる富貴寺、
本山本寺馬城山伝乗寺の堂宇であったとされる真木大堂を訪ねた。

蕗浦阿弥陀寺(富貴寺)は宇佐神宮大宮司到津家の歴代祈願所とも
ある富貴寺大堂(国宝)は、「蕗の大堂」とも呼ばれている。

富貴寺山門と石の仁王像

 

 

豊後高田の蕗に養老二年(718)に仁聞菩薩が開基したと伝えられる
蓮華山富貴寺、別名蕗寺は平安末期の十二世紀後半に創建された九州
最古の木造建築で、阿弥陀堂形式の大堂は、内部は板敷で、四天柱で
内陣が区切られ、阿弥陀如来座像が安置されている。
(大堂内撮影禁止なので富貴寺パンフレットより)

 

大堂左手には笠塔婆が数基と国東塔、大堂廻りに古い石塔が残っている。
国東塔は京大の天沼俊一博士が明治45年、大堂を修理のため富貴寺を
訪ね、境内で変わった石塔を目にしてその後、国東半島各地に同形式の
石塔が多数分布していることを知り、所在地にちなんで「国東塔」と命名
している。



 

富貴寺の本堂篇額と山門

  

真木大堂
六郷満山六十五ヶ寺のうち本山(もとやま)本寺として三十六坊の
霊場を有した最大の寺院であった真木大堂の名で知られる馬城山
伝乗寺跡は豊後高田市田染真木にあり、現在本堂とは別に新造された
収蔵庫内に阿弥陀如来座像、大威徳明王像、不動明王像、二童子立像、
四天王立像の計九躯の平安仏を伝えている。真木大堂には伝乗寺の
各寺坊が衰退したので、今、各堂の本尊をこの一堂に集めたという。
(大堂内撮影禁止なので真木大堂パンフレットより)

 

本堂横の旧堂に皇室菊花の御紋章があり御下賜由来があった。
鎌倉時代、蒙古来襲に鎌倉幕府は異国降伏の祈祷を命じ、六郷満山の
学問所であった馬城山伝乗寺で、異国降伏の大祈祷長期が行われた。
その恩賞として菊花の御紋章が下賜されたという。



 
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