大佗坊の在目在口

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飯盛山ローマ市碑

2010-04-16 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (1)

会津若松の飯盛山白虎隊墓碑のまえの広場に、イタリアの
独裁者ムッソリーニにより贈られたローマ碑が残っている。

説明板には「白虎隊の精神に深い感銘を受けたローマ市は
昭和3年、ローマ市民の名をもって、この碑が贈られた。
この碑の円柱は赤花崗で、ベスビアス火山の噴火で埋没した
ポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱である。
基石表面にイタリア語で「文明の母たるローマは、白虎隊勇士の
遺烈に、不朽の敬意を捧げんがため古代ローマの権威を表す
ファシスタ党章の鉞を飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を
贈る」裏面に「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが、
第2次世界大戦後、占領軍の命により削り取られた」とある。

さらに昭和53年11月、会津弔霊義会発行の戊辰殉難追悼録では、
この白虎隊礼賛の碑について「日本の背骨を会津に見つけたり
日本のよさと言うものであった。これが日本の国際的親善に役立ち、
会津のよさを会津人の身に蘇生させること大であった」と書かれていた。

今、この碑を見ると、太平洋戦争後によく壊されずに残ったものだと
思い、何か異様な感じを覚えてならない。

この紀念碑寄贈の話が下位春吉により初めて日本にもたらされたのが
大正14年初め。この怪人物、下位春吉からの話で会津の人たちが翻弄され
大変な苦労が始まった。紆余屈折のあと、ローマから贈られた白虎隊記念碑の
除幕式が盛大に行われたのは、丁度、明治戊辰の戦い六十年後の昭和3年
(1928)12月1日のことであった。

大正から昭和に替った頃は第一次世界大戦後(1918)、世界的に軍縮が
大勢となり、二度の軍備の整理・縮小を経て、関東大震災発生(大正12年)
の復興等もあり、大正14年(1925)第三次の軍備整が行われた。

若松に置かれていた13師団の歩兵第65連隊(現在の会津若松市立
第二中学校の敷地)が廃止され、代わって第2師団の歩兵第29連隊が
仙台から移ってきた。軍靴の響きが段々大きくなってきた時代であった。

大正13年は、イタリア総選挙でファシスト党が勝利、大正14年には
日ソ基本条約に調印し、ソ連と国交を回復している。このような時代背景の
なかで、イタリア帰りの下位春吉により、ムッソリー二からとして会津
白虎隊紀念碑寄贈の話がもたらされた。         (続く)
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