大佗坊の在目在口

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下位春吉

2010-04-19 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (2)

大正14年、イタリアから会津白虎隊の紀念碑寄贈の話を会津に
もたらした下位春吉とはいったいどんな人物だったのだろうか。

下位春吉研究家の白土晴一氏によると、春吉は明治16年(1883)、
福岡県士族井上喜久蔵の四男で明治40年、東京高等師範学校入学の時、
下位嘉助の婿養子となる。在学中「口演童話」の活動で知られたと言う。

大正期の口演童話については、「お噺の仕方」という春吉の著書がある。
その本に、研究のため助力を受けた人に久留島武雄、巌谷小波、イタリア
大使館訳官ガスコの名を挙げている。東京高等師範学校の大塚講話会での
指導やイタリア国ナポリに赴任したとの記述がある。

大正14年3月、国民新聞社編輯で下位春吉講演速記「フアツショ運動」を発刊。
大正8年(1919)5月、すでにオーストラリアに宣戦布告していたイタリアで、
フユーメ奪回の決死隊に入隊、熱血児で詩人のダヌンチオ軍曹の率いる一分隊の
一番初めの兵隊となったとある。国民新聞編輯局の編者は春吉について
「永く伊太利に在って、熱血詩人ダヌンチオの詩懐にひたり、更にフアツショの
兵士として伊太利国民運動の中枢に参加していたことは諸君の知らるゝ通りである」と
紹介しているが、春吉のイタリアでの行動についてはハッキリしていない。

大正5年からのイタリア在中から大正14年(1925)までの帰朝までの
春吉の記録は日本側に余りないが、外務省記録に大正10年(1921)7月、
在伊国大使館藤井書記官より伊集院大使宛に下位氏よりの伝言として来電文が
別紙として、宣伝関係雑件に残っていた。
(下位春吉帰朝時期については、国民新聞社記録では大正13年12月、
外務省資料では大正14年初となっている)

電文
「下位氏帰朝シ難キ事情アリ家族当国へ呼寄セ度旅費ハ家族宛
郵送スヘキニ付右到着次第成ルベキ早ク伊太利ニ向ケ出発スル
様同義家族へ御伝へ願度出発ニ付何分ノ御世話願フ」
これは、旅費は送るので、家族の伊太利行きの船その他手配の依頼。

ところが大正10年8月12日に在伊日本大使館藤井氏より外務省
伊集院大使に連絡がはいった。
下位春吉より家族呼寄に関し、これに要する旅費等四千円は閣下宛
横濱正銀行渡為替券壱葉を以て送金の申し出でがあり、送金が
遅れたのは「東宮殿下の伊太利訪問等の為、取り紛れて本日まで
遅延した」と弁解しているとあった。

いずれにしても大使宛の為替券では、支払いは伊集院大使に
なってしまい、振出人が受取人となる自己受為替券では単なる
借金の申し出だったのだろうか。

大正10年10月4日、本省着、藤井より伊集院大使へ電報。
「下位家族鎌倉丸ニテ出港出来得ル様御配慮ヲ請ウ。旅費ハ八月十二日
閣下宛郵送済。尚ホ下位ハ当館ニ勤務シ居ル次第ニ非ズ」
大使館勤務ではないと断られては、大使もさぞ驚いたことだろう。

大正10年10月8日付、外務省に金額四千円の一通の領収書が
残っている。受取人は妻の下位富志、
摘要欄は伊集院大使宛正金銀行支掛ノ為替手形一葉とある。

大正14年(1925)初め、伊太利より帰朝した下位春吉は講演を
しながら各地を巡回、2月11日、会津若松市に赴き松江市長と面談、
伊国少年隊は白虎隊の事蹟に感激し少年隊長ムッソリーニ氏の名に於て
一紀念碑を寄贈することになっていると話し、市長の案内で飯盛山を訪ね
調査をおこなっている。ここから会津市長松江豊寿氏の苦労が始まった。 

どのような関係があったのかは不明だが、ムッソリー二との交流も
あったようで、同年11月、下位は再び若松を訪ね、イタリア首相の
自署のある大写真を会津弔霊義会に送っている。  (続く)
コメント
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